The pianist「戦場のピアニスト」のリアリティー(2)  「恥を知る人」

<発刊の経緯>

『戦場のピアニスト』の原作であるウワディスワフ・シュピルマンの自伝は、大戦直後の1946年ポーランドで『ある都市の死』という書名で刊行 された。

1946年ポーランドで出版されたときの「ある都市の死」
1946年ポーランドで出版されたときの「ある都市の死」

冷戦下の同国では、シュピルマンを救ったのがナチス・ドイツの軍人であったという事実は「政治的に好ましくない」ため、止むを得ずオーストリア人 と設定したが、それでも刊行直後に政府から絶版処分を受けた。

以降、国内外を問わず再版されることはなく、1960年代におけるポーランド国内での復刊の試みも、政府の妨害で実現できなかった。

しかし初版発表から実に50年余り経過した1999年に英語、ドイツ語、フランス語で復刊され、後にポーランド語でも再版された。冷戦崩壊のおかげで、やっと真相が解禁になったのだろう。
英題は「The Pianist:The extraordinary story of one man’s survival in Warsaw, 1939-1945」。日本語版は2000年に佐藤泰一氏の翻訳で春秋社より刊行。

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「前書き」で、子息のアンジェイ・シュピルマン氏が以下のように述べている

「・・・父は数年前まで戦時中の体験を決して語ろうとはしませんでした。・・・・この本を読まれたことを父は知っていたと思いますが、それについてお互いに話し合ったことはありません。・・・・・・」と。

最愛の子息に対してすら語れないシュピルマンの心の葛藤が思いやられる。
余りに深く重いわだかまりは、とても言葉にできなかったのだろう。実は深刻な戦争体験に多いと思う。
これに比べれば、語ることのできるような「不幸」にはしばしば落とし穴もある。場合によっては、自己顕示欲の産物だったりちゃっかり同情をあてにしていることもある。

シュピルマンは戦争が終わるや、自分を救ってくれたあのドイツ人将校を捜したのだった。
やっとその恩人はソ連の収容所にいるとわかり、ポーランド政府に救済を申し立てた。しかし、残念ながら徒労に終わった。
エピローグでは98年と思われる老シュピルマンの告白が綴られている。それは東西冷戦が終わり、ドイツで半世紀ぶりに自著が出版される前年の述懐だ。

「・・・・おわかりでしょう。私は話したくないのだ。このことを誰とも話し合ったことはない。妻とも、二人の息子とも・・・・・。恥ずかしいからだよ。・・・・私は1950年代の終わりにドイツ人将校の名前をやっと見つけて、恐怖と闘い、嫌悪を克服しつつ、謙虚な請願者として、ポーランドでまっとうな人間なら口にもしたくない犯罪者のところへ行ったんだ。ヤクブ・ベルマンのところへだよ。
・・・・ベルマンは友好的で、何とかしようと約束してくれた。数日後、個人的に電話さえしてきてくれたのだ。彼は気の毒がっていたが、結局は何もなされなかった。・・・・スターリンお気に入りの全能なる男が!・・・・・私は最悪のくじを引き、どうにもならなかったんだ・・・・・」(261-2項)
(後に判明するが、恩人は52年にすでに獄死していた)」

「口にもしたくない犯罪者」ヤクブ・ベルマン(Jakub Berman: 1901-1984)は、スターリンの忠実な追従者、秘密警察及びイデオロギー担当として多くの政治犯の粛清に深く関わったとされる政治家らしい。当然、ポーランドではベルマンの名前は、冷戦期の暗部の象徴だという。社会主義政権による圧制を経験したことのない我々には、その陰鬱さがなかなか実感できない。
このあたり、東西冷戦下のイデオロギーに翻弄されたポーランドの不幸な政治事情を知るために、本サイトで紹介した「ポーランド映画『カティンの森』」がひとつの参考になった。

つまりシュピルマンは、場合によっては身の危険に及ぶことを承知で、自分の命を救ってくれたあのドイツ人将校の救済を、恐ろしい権力者に敢えて嘆願してみたのだが、冷戦下のポーランドでは徒労に終わったのだった。

恩返しをすることはかなわなかった。そして結果的に自分だけが生き延びた。
だから、その自分が「恥ずかしい」のだ。
これは思い出すのも辛い心の傷だろう。
むしろ実際には、こうした羞恥心の希薄な人のほうが多いと思う。

シュピルマン
シュピルマン

<ポランスキー監督>

本書を映画と比べて読んで見ると、ポランスキー監督の描き方の特徴が、逆によく見えてくるように思った。

ユダヤ人であるポランスキー監督自身も、少年時代にナチスから母親を殺され、過酷な逃亡生活を経験した。戦後の映画界で仕事をしていたアメリカでも、今度は妻と子供をカルト教団に惨殺されるという凄惨な不運に遭遇している。また自ら起こした性犯罪で有罪を宣告されていて、刑を逃れるためアメリカから逃亡、その後は入国できない境遇らしい。
人生そのものがノーマルではない。極めて特異な軌跡を生きた人なのだろう。

映画には、そうした尋常ならざる体験を持つポランスキーらしい人生観が反映されている、と言えるのではないだろうか。いわゆる平和学習や人道の啓発書ではないからだと思う。

映画での一番のハイライトは、すっかり憔悴して浮浪者のような姿の主人公が厳寒の中、廃墟のワルシャワ市内でドイツ人将校ホーゼンフェルトに偶然に出会ったシーンだった。
そして、その場でホーゼンフェルトの要求に応じて引いたピアノ演奏の素晴らしさが、シュピルマンの命拾いにつながったという描き方になっている。俗に言えば

「芸が身を助けた」

しかし、原作を読めば、この場面の真相は異なる。

確かにシュピルマンは実に5年ぶりに、廃屋の中で求めに応じてピアノを弾いたのだが、それが彼の命を救ったのではなかった。
ドイツ軍将校ホーゼンフェルトは不審な浮浪者を誰何したところ、彼がピアニストだと答えたので、事実確認のために、そこにあるピアノをシュピルマンに演奏させてみたのだった。
そしてこの男が逃亡中の「ユダヤ人」と知ったのだが、奇跡的なことにこのドイツ軍大尉が実はまれに見る人道の士だったのだ。一人の「人間」としてシュピルマンを扱い、内密に命を救った。これまた命がけの行動だ。

シュピルマンがたまたまピアニストだったのだ。
この場合「芸が身を助けた」というよりも、
「地獄で仏」
のほうがより的確な譬になりそうだ。

しかし 考えてみると、あの狂気のナチス時代に、こんなにまっとうな精神のドイツ軍将校がいたという驚くべき真実をもっと称賛すべきだ。後世に記憶されねばならない史実だと思う。
だからこそ、社会主義政権は事実を敢えて黙殺した。ドイツ軍は全員「悪」でなければらない。
こんな政治的色分けに騙されてはいけない。政治的なスローガンの「無謬性」を偽装するための「ごまかし」に過ぎない。それは権力者の保身のためなのだ。今もありそうだ。

人間が獣よりも凶暴な悪魔に変貌する戦場にあっても、なお「人の心」を失わなかった人物が確かにいた・・・・しかも「鬼畜の侵略者」ナチス・ドイツ軍の側に・・・・という心揺さぶられる真相。
そこに、人間の「救い」の可能性を見出しても良いのではないだろうか。

ところが、ポランスキー監督は、「人間性」よりも「芸術性」を優先したかのようだ。 底知れぬ人間悪を覗いたポランスキーには、この世に安易な「救い」など認めたくないかのだろうか。
だからこそ、映画でのシュピルマンには、なにか虚無的なムードさえ漂うのだろうと思える。

また、後述するように犯罪者「ドイツ人」と被害者「ユダヤ人」という単純な二項対立ではなくて、同胞のあられもない醜悪な姿をもシュピルマンは書き残した。
つまり、真実を過不足なく描こうとしたのだろう。リアリティーに徹した。

<シュピルマンの実像>

実際のシュピルマンは、たんに繊細なピアニストであっただけでは決してなかったのだと思う。
絶滅収容所から家畜貨車に詰め込まれる寸前で、奇跡的に逃亡できたものの、愛する家族とは永遠の生き別れになった。その後はたった一人でワルシャワ市内を、闇から闇へとドブネズミのようにひたすら逃げ回る身となった。やがて友人からの情報で、愛する父母や二人の妹弟が「絶滅収容所」に送られたことを知ったが、

「・・・・・ともあれ、死が必ずやってくることをわきまえてこそ、どんな厳しい状況に置かれても自分は生き抜くのだというエネルギーがふつふつとわいてきたのである・・・・」(129項)
これは死に臨んだ達人の心境だと思う。

「・・・私は自己の精神と生き抜く意思とをしだいに取り戻した・・・・こうなると、いよいよもって何があっても希望を捨ててはだめだと自らを励ました。・・・・」(141項)

という具合で、これほどの極限状況のなかでも、むしろ強靭な精神力を自らに鼓舞し得た人だった。
家族はすべて抹殺された。それだからこそ自分だけは、なんとしてでも生き延びようと決意したのだ。このバネがなければ彼も死んでいただろう。

この精神力は、いま脱出口の見えない苦境にある読者に勇気を与えてくれる。苦難を生きる勇気になると思う。

シュピルマンの凄さは、まこと「九死に一生を得る」ような際どい逃避行にあってもなお、その詳細を正確に記憶して残した。そのうえに、ドイツ人だけを恨んで済ますような狭い感情論に閉じてはいない冷静な態度だ。

これは日本の侵略戦争を考えるときに、ひとつの知見として考えさせられる姿勢だと思った。もちろん、加害者日本人の側からアジアの被害者に向って声高に主張する類の話ではない。
また、「自分は戦後生まれだから(戦争)責任はない」などとと公言して、恬として恥じない政治家(屋)が要職に就くような日本の政治を私は信用しない。

ともあれ、主人公はたとえば、ゲットー内でのユダヤ人社会のあられもない汚点をもきちんと書き残した。

「・・・・ドイツ軍は・・・・あの人間狩りの義務をユダヤ人警察とユダヤ人労務局に負わせたのである。・・・」(85項)

「・・・・・こうした連中というのはおそらくゲシュタポの精神をもろに受け継いでしまったのかもしれない。現に、ひとたび制服を着、警官帽をかぶり、ゴムの棍棒を持ったとたん、人格まで変わってしまうのだった。・・・」(86項)

ナチスの尻馬に乗って、自らの同胞を情け容赦なく殴打した者が確かにいたのだった。この証言はタブーへの挑戦だろう。60年代はじめのハンナ・アーレント著「イスラエルのアイヒマン」での指摘にも通じるが、それは同胞から激しい感情的な反発を招きかねない。
ゲットー内でありながら同胞間には極端な貧富の差があった。民族の破局が目前に迫っているのに、自分の目先の物欲を追い求めるだけの背徳の人々もいた。まるで旧約聖書のソドムとゴモラの物語を想起するような話だ。
人間が本来的にもつ愚劣さもしっかり書き残した。

やがて、耐えに耐え忍んで来たユダヤレジスタンスの蜂起が起きた。
しかしドイツ軍の鎮圧は、これまた残虐を極めた。

「・・・・ゲットーの闘いでは、大砲や戦車、そして空軍まで動員されたが、ドイツ軍から見ればはるかに弱い者たちの反乱を鎮圧するのに数週間もかかったことになる。ユダヤ人はみな生きて捕えられることを潔しとはしなかった。ドイツ軍が建物を取り囲むと、中にいる女性たちは子供たちを一番上の階に上げ、バルコニーから地上に向かって子供たちを放り投げ、自らも身を投じた。・・・・」(160項)
という。その壮絶な悲惨さには言葉もなく胸が塞ぐ。

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圧倒的なドイツ軍によって鎮圧されるユダヤ人ゲットー

恐怖の逃避行は尚も続く。

「・・・・とうとう死ぬということか。五年間も待ち受け、来る日も来る日も逃れてきた死がついに私を捕えようとしている。しょっちゅう死を想像してきたものだ。捕えられ虐待され、その後、射殺されるか、さもなくばガス室で窒息させられるか・・・・ところが、まさか生きながら焼かれるなどとは思いもよらなかった。・・・・」(185項)

こんな具合で、何度も凄惨な死を覚悟せざるを得ない奈落を奇跡的に逃げ切り、それでも隠れ家では

「・・・・孤独がもとで正気を失わないようにするために、できるだけ規則正しい暮らしを心がけようとした・・・・・私がこれまで弾いてきた全ての作品を一小節ずつ心の中に思い浮かべた。後年、こうしたいわばメンタルな練習法が大変役に立つことがわかった。私が仕事に復帰した際、まるで戦時中ずっと練習して来たかのように、レパートリーとする作品が全て暗譜できていたのである。それから、昼食から夕暮れまでは、私が読んだ全ての本の内容を頭の中で系統的に組み立て直したり、英語の用語をそらで何べんも繰り返した。また、自分で問題を出し、正しくかつ詳しく答えを出すというような英語のレッスン法を考え出したりした。・・・・」(197項)
というのだから、その端倪すべからざる自制力には感服する。
これは誰にもできることではない。

結局、この「生」への並外れた執念がシュピルマンの真骨頂なのだろう。
諦めていたら、死んでいたに違いない。まったく並の精神力ではない。

大雑把な把握かもしれないが、映画のシュピルマンは、どちらかというと飢餓地獄の中、ひたすら逃げ回ったという印象が濃い。
しかし実際には、その内面を支える強靭な「芯」がなければ途中で前途放棄していただろう。そのほうが楽なのだ。

ユダヤ人の反乱が鎮圧された後、今度はワルシャワ市内のポーランド人たちが蜂起したが、これまた圧倒的なドイツ軍に鎮圧された。そしてヒトラーの残虐な破壊命令で美しい街並みは完全に廃墟と化した。なんと証拠隠滅のためだ。
このときワルシャワ市外にいたソ連軍は、貧弱な武力しか持ち合わせないポーランドの蜂起軍を、あえて救援せず見殺しにした。非情にも自己の政治的打算を優先したのだ。
これも冷戦下では公然の秘密だった。

この間、我が身の危険を顧みずユダヤ人ピアニストを匿った英雄的なポーランド人がいたとかと思えば、シュピルマンの支援と称して金集めをして私腹を肥やした「地下組織の活動家」もいたという、あられもない事実も書き残した。

「・・・・この男はとても胡散臭い保護者だった・・・・サウァスは私のためと称し、ワルシャワ中でお金を集めていて、命を救うためならと誰も断らないので、彼は相当な額の現金を貯めこんでいただろうということである。あの男は私の友人たちをほとんど毎日のように訪ねて、私が何の不自由もしていないと請け合っていたそうだ。」(167項)
本名で事実を暴露した。

地獄の業火に焼かれる阿鼻叫喚の渦中だからこそ、平時では表に出ない、それぞれの人間の本性がむき出しになっていた。
人の心ほど、表面からだけ見ていてわからないものはない。怖いものはない。私は、それが真相なのだろうと思う。
感情を極力抑えた筆致で、シュピルマンは「極限の真実」をありのままに書き残してくれた。非常にリアルだ。

<ホーゼンフェルトの日記>

本書には、巻末にドイツ軍大尉ホーゼンフェルトの日記の抜粋が加えられている。とても貴重な記録だ。

ホーゼンフェルトは綴る。

「・・・1943年7月6日
実にむごたらしい、人々の犠牲を伴うこの恐ろしい戦争をどうして神は許したのか? 恐るべき空襲、罪なき市民を襲う凄まじい恐怖、強制収容所における囚人に対する非人間的扱い、ドイツ軍による何十万にものぼるユダヤ人虐殺などを考えてみよ。これは神の過ちだろうか? どうして神は助力の手を差し伸べず、為すがままにしているのか? そのような疑問を持つ。しかし、答えは得られない。(2000年 春秋社刊  241項)
敬虔なクリスチャンであるからこそ、苦しんだ。

「・・・・・・ナチスが力を持ったとき、我々はそれを阻止すべく、何もしなかった。我々は自身の理想をあざむいたのである。個人の理想、そして民主主義と宗教の自由という理想を。 労働者はナチスに追従して行った。教会は傍観して見守った。中産階級はあまりに臆病で何もしなかった。指導すべき知識階級とて似たようなものである。我々は労働組合の廃止を認め、いろいろな宗教上の宗派を抑圧されるがままにした。新聞やラジオにおける自由な発言もなくなる。とどのつまりが、我々は戦争へと駆り出されることになってしまった・・・・・」(同241-2ページ)
見事にナチス・ドイツ時代の真相を延べている。

1943年(昭和18年)のドイツ軍に、こんな将校がいたとは本当に驚く。同じオーストリア・ドイツ人だが、アイヒマンの「凡庸な悪」とは好対照だと思う。
しかも、ホーゼンフェルトはシュピルマン以外のユダヤ人も救っていた。

日本ではこの年、私の父が学徒兵として嫌々出征させられた。表向きは「お国のため」。
東京では、ドイツ国籍のリヒャルト・ゾルゲがソ連のスパイとして裁判を受けていたが、国民にはまったく真相は知らされていなかった。大本営発表という、破廉恥な「フェイクニュース」だけが焦土に虚しくこだましていた。

ホーゼンフェルトは敬虔なカトリック信徒だったようだが、だからこそ教会にも厳しい視線を浴びせている。これは本サイトの映画「尼僧物語」でも指摘した問題点だ

ホーゼンフェルト大尉
ホーゼンフェルト大尉

かように真相は単純ではない。
ここに映画「戦場のピアニスト」の括目すべきリアリティーがあった。実に貴重な歴史記録だと思う。

<恥を知る人>

すっかり廃墟となり、冷たい雪の舞う市中を食料を求めてさまようシュピルマン。そこで偶然出会ったホーゼンフェルトとの、人目を忍ぶ極限の対話はとても感動的だ。

「・・・・彼(ホーゼンフェルト)は・・・・心なしか自分を恥じるかのように慌てて付け加えた。『何か食べ物をもってくる』」
ここに至って、私のほうから思い切って尋ねてみないわけにはいかなくなった。単に自分をこれ以上抑えられなかったにすぎないのだが。
『貴方はドイツ人ですか?』
将校は顔を紅潮させた。そして私の質問を侮辱の証しと受け止めたかのように、ほとんど叫ばんかぎりに答えた。
『そうだ、その通りだ!恥ずかしいことだ。こんなことばかりが起きてはな』
不意に、私の手を握ると、さっさと部屋を出て行った。・・・・・」
(同書209項)

この場面はなぜか映画には描かれていない。
ポランスキーは、あえて描かないことにしたのだろうか。
しかし、これこそ歴史に記憶すべき事実ではないだろうか。
驚くべきことに、ホーゼンフェルト大尉は「人間として」恥じたのだ。
そして、ホーゼンフェルトを救えなかったシュピルマンも生涯、「恥」を忍んで生きたのだった。

こんな地獄の底にありながら「ドイツ軍将校」や「ユダヤ人」としてではなくて、二人とも生の「人間」として向き合えた、稀な瞬間だった。
ここにこそ「戦場のピアニスト」の本当のクライマックスがあるのだと私は思う。

1952年ヴィルム・ホーゼンフェルトはソ連の収容所で悲劇的な死を遂げた。シュピルマンは2000年まで生き残り、国民的ピアニストとして活躍。88歳の天寿をまっとうした。

日本でも「ナチス・ドイツ軍将校」ホーゼンフェルトの気高い精神を、もっと周知宣揚してもよいのではないだろうか。相対的に日本軍将校のモラル水準が問われることだろう。

「歴史の真相」とは真摯に向き合うべきだろう。事実を捻じ曲げたり誤魔化すのは、罪の上塗り行為でしかない。
「戦争を知らない世代」であっても、民族の歴史をありのままに受け継いでいくべきだと思う。

シュピルマンが「妻や子供にも話したことはない。恥ずかしいからだよ」と、命の恩人を救えなかった苦しい胸の内を吐露する哀しみもよくわかる。

2007年10月、ポーランド政府はシュピルマンらを救った功績を顕彰してホーゼンフェルトにポーランド復興勲章を授与した。更に2009年2月にはイスラエル政府も「諸国民の中の正義の人」の称号をホーゼンフェルトに追贈した。死後半世紀を過ぎていた。シュピルマンもすでに他界していた。

位相は異なるが、私の父も含め、「大日本帝国」将校に、まともな「人間」はどれだけいたのだろうかと考えてしまう。「ナチスの同盟国」だった事実を考慮すれば、決して他人事ではないだろう。日本人は忘れても、被害者の子孫に記憶は語り伝えられている。みっともない弁解をつべこべすべきではない。

日本人が人道的な配慮からユダヤ人救った事例が新たに発掘されて最近話題になったが、それをもって「日本の戦争犯罪が免罪されるものでは決してない」ということも付け加えておきたい。

ともあれ、この二人の稀有の登場人物は、何よりも人間として「恥を知る人」であったことを指摘しておきたいと思う。

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