映画「尼僧物語」 The Nun’s Story

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1959年に公開されたオードリー・ヘプバーン主演の名作映画。
宗教的なテーマがなじまないのか、日本ではヘプバーンの他の作品ほどには有名ではないかもしれない。
しかし、欧米のキリスト教圏では、製作した映画会社ワーナー・ブラザーズの予想に反して大ヒットした。意外なことに彼女の出演した作品の中で、最も興業的に成功した映画だったのだそうだ。

深い精神性をテーマにしているので、それにふさわしく映像も絵画のように美しいし、音楽も荘重な響きを与える。たとえば冒頭に掲げたベルギーの街並み。その川にかかる石橋から河面を見下ろす主人公ガブリエル娘の姿など、まさに名画を見るような美しさが心に染みいる。

物語は1920年代のベルギー。この当時は、女子には医学校の門戸が開かれていなかったらしい。しかし尼僧になれば研修で医学校に派遣され、男子学生と平等に医学を学ぶことが可能だったのでガブリエルは尼僧になる決意をした。この背景は映画だけではわかりにくい。
著名な名医を実父に持つ彼女は、すぐれた看護技術を身に着けていて、植民地コンゴの現地で、疾病に苦しむ人々に奉仕することを熱望していた。理想に生きようとする情熱があった。

婚約者もいたが、敢えて尼僧になってまで赤道直下の熱帯での医療奉仕を志したのだ。とても気高い精神の女性に描かれている。オードリーの、華奢な美貌と気品がその役柄にはまっている。なぜか母親は登場しないが、長女の出家に父親が立ち会う。娘の幸福を願う父親は、とても複雑な気持ちを隠せない。

いよいよ出家の日。
父娘の目の前には、天にそびえたつカトリック修道院。その堂々たる荘重さが、キリスト教文化の重厚さを感じさせる。

後半に登場する熱帯地方コンゴの風景描写は、まるで博物学のドキュメタリーを見ているようなタッチ。細かい部分も入念に仕上がっている。合計2時間半の大作。

映画のもとになった小説は、実在の人物に取材したベスト・セラーだったらしいが、邦訳が図書館でも見つからなかった。
娯楽映画ではない。なんといってもオードリー・ヘプバーンが、主役の尼僧「シスター・ルーク」の内面の微妙な葛藤を、見事に演じてみせたことが際立つ。

「ローマの休日」では天真爛漫なアン王女役だったヘプバーンが一転、それこそ真剣勝負で、正面からシリアスな役柄を演じきった。ここにも作品が成功した理由のひとつがあるのだろう。

禁欲的な僧衣を纏っていることが、却って魅力を引き立たせた。抑制効果の妙味だと思う。そして、出家者でありながら、とても人間的な情感が滲み出ている。僧衣から露出した顔の表情が演技の中心。とても難しい役柄だと思う。

その微妙な感情表現を見てに、その都度、主人公に感情移入しては一喜一憂する。彼女が、もはやたんなる「アイドル役者」ではないことを、しかと証明してみせた作品だと思う。30歳を前にしたオードリーが、女優として新しいステージに入ったことを示している。

彼女自身も脚本を読んで、この役柄を強く希望したと伝えられる。ちょうど、つらい流産を経験していたころだった。

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しかし、正直に告白すると、一神教の世界を知らない自分には、本当に深く理解できたのか、まだまだ手に余る作品だとも思った。

ガブリエル娘は厳しい修行に耐え「シスター・ルーク」に変身するのだが、「世俗的な感情」や「自分の意思」と「神への絶対服従」という規律のはざまで、とてもつらい葛藤に遭遇する。
それほどまでに、キリスト教が生きた(或いは生きていた)宗教である証拠だと思う。

現在日本の宗教事情からは遠いので、我々には圧倒的な「神」の存在感を想像することが難しいのだろうと思う。
注意深く観ないと、なぜ主人公のシスター・ルークがそこまで悩み、苦しまなければならないのか、なかなかわからない。

「戒律」と「自由意思」との葛藤というような単純な表現だけでは、まだ本質的な理解に達しないのではないか。

修道院の戒律主義は、強い信仰に支えられている。修道院長は「キリストの代理人」なのだと教えられる。尼僧はいわば「神の道具」になりきらなくてはならない。そのためには自分の我を捨てなくてはいけない。かくして修行の進んだ尼僧の中には、とても無表情な静謐さをたたえた人がいる。

うまく表現できないが、「俗な人間ではない」。世俗にまみれた平凡人から見て、やや不可解ですらある。

映画の中では、時折キリスト像がちらっと登場する。最も大切なものはむやみに露出しないのだろう。ことほど左様に「神」の存在が大きいからではないだろうか。

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しかし、修道院の掟は厳しく、「看護士」であることよりも、ほんものの「尼僧」になることがすべてに優先される。
指導に当たるシスターが、まるで「戒律マニア」のようにみえる。これには、正直抵抗を感じてしまう。
沈黙の行、歩き方、身の振り方まで事細かい掟を教え込まれるのだ。

例えば、企業や団体で新人教育を行うときにこうした現象をよく見る。指導教官本人はあくまで後輩に教育を施しているつもりなのだろう。だが、斜めから見ると、生徒を指図することに一種の「快感」を味わっているのではないかと疑いたくなる。
そう感じるのは、こちらが世俗的だからだろうか。

暖房施設のない、冷え冷えとした石造りの床に五体投地する場面は特に強く印象に残った。
荘厳な装飾の薄暗い巨大空間の室内を沈痛で重々しい教会音楽が溢れる。地上離れした賛美歌が高く響きわたるなか、伏し目がちの尼僧たちが、固くて冷たい石造りのフロアーに身を投げ出す光景は「衝撃的」ですらある。
あらためて、神の「威力」を思い知らされる。
「磔刑」というイメージも、悲劇感を高めるのだろう。

そして尼僧になる儀式が世俗との絆を断ち切るためか(聖別というのだろうか)、花嫁姿であることにも驚いた。美しい白無垢の衣装は主への貞潔、従順という姿勢なのだろう。だから尼僧は独身なのだと、今更ながらに得心した。
神聖な儀式なので、家族は鉄格子を隔てて無言で見守る。聖俗が峻別されている。世俗との絆が、ここで切断されるということなのだろうか。

神道の「巫女さん」のイメージと似ている面もあるけれど、やはり基本的に違う。「八百万の神」とは異なる、唯一絶対神への圧倒的な畏怖感があるように感じられた。

当初、多少の戸惑いはあったが、真面目な主人公は戒律を堅固に守り、告白と懺悔に勤める。しかし、彼女の精進にもかかわらず、コンゴへの道のりは平坦ではない。戒律づくめの生活に合わず、途中で脱落する者もある。

熱帯医療を学ぶ学校では、気の合わない女性同士の競争心や感情的な葛藤にも悩む。
ここの監督シスターからは、嫌いな相手のためにわざと試験に落ちて犠牲精神を発揮するように、と指導されてまた苦しむ。
嫌いなものは嫌い、と割り切ってはいけないのだろうが、やはり無理な偽善性があるのではないだろうか。

この場合は後に、指導した先輩のシスターのアドバイスが必ずしも「正解」ではなかったことも示唆されて、興味深い。教会内での指導にも過誤があるようだ。
細かい部分だが、こうした「綻び」もきちんと描いているのだなと感心。

苦労の末、やっと資格試験に合格したかと思ったら案に相違してコンゴではなくて、精神病棟に赴任させられ、そこでまた思いも寄らぬ危険なめにあう。それが今度は厳しい自責の原因となる。
病棟の決まりを甘く見た自分の判断が、身の危険を招いたのだと懺悔する。掟を軽視したので罰を受けたのだ。そこまで自虐でなくてもいいのじゃないかと思ってしまうほどだ。
理想と現実の落差を学ぶ機会を与えられたのだろう。

ここでも修道院長から諭されるのだが、自分の判断力を見下ろして、神の側に立つ「尼僧」なることを優先しなくてはいけないのだろう。
そう語る老院長の表情も長い修道院生活で身に着けたのだろうか、不思議に感情表現が淡い。何か人間離れしているというか・・・・。私には謎めいた雰囲気をすら感じられる。

象徴的な場面だが、診療の途中で教会の鐘が鳴れば、患者をおいてただちにお祈りに馳せ参じなければならない。鐘は「神の呼び声」だから。

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やっと念願のコンゴ派遣が決まった。久しぶりに晴れ晴れとした、嬉しい出発に家族が見送る港の別れ。普段は伏し目がちなシスター・ルークが船上から破顔一笑して手をふる。ほっとする場面だ。

しかし着いてみたら、看護の任務はなんと白人病棟だと命じられた。てっきりコンゴ原住民の看護ができるものと思い込んでいた。こんなに苦労して、はるばるやっとここまできたのに、また彼女の希望は裏切られた。失望の涙。

映画では現地コンゴでの医療活動に従事する修道女たちの、献身的な姿がとても印象的だ。乳幼児の命を助けるための無償の奉仕、教育活動、そしてハンセン氏病者の集落で、その生涯を医療奉仕に捧げる神父。彼自身も長期に滞在している間に罹患している。
皆、覚悟の上「出家」して独身で生涯神に仕える身だ。

中には「占い師」のまじないを信じた現地人に殴打され、殺されてしまうような尼僧もある。しかし尼僧たちは殺人者を憎まず報復もしない。
むしろ、現地人とともに生きる中で伝道と布教が熱心に行なわれ、土俗宗教からの改宗を推進する。
中世以来、カトリックがどいかに苦闘しながら世界に宣教していったのかを垣間見る思いだ。

ところで、シスター・ルークが補助することになった優秀な男性医師(フォチュナティ医師)は、なんと独身で無神論者。先輩の尼僧からは「危険な悪魔」だから、油断しないようにと教訓される。

この男性医師との切羽詰まる神経戦のような毎日に、彼女はまた苦しむ。医師は彼女の信仰をぶしつけに揶揄したり、批判がましい皮肉を投げつける。そのたびごとに、シスター・ルークは傷つき、床に伏して神に告解するはめになる。
今様に言えば、パワハラ。
しかし、シスター・ルークは頑固に尼僧の矜持を堅持する。

やがて献身的な過労がたたって結核を発病した。
今度はそのフォチュナティ医師が、逆に手厚い治療を施してくれたお蔭で回復に向かい、次第に互いの心が開く。
ことの自然ななりゆきだが、二人の間に心の交感が生まれ、フォチュナティ医師は、シスター・ルークに「君は自分の意思を持っており、尼僧に向いていない。君の本当の病は心だ」と指摘する。

尼僧でありながら、無神論者と心が通ってしまう。
それは、破戒ぎりぎりの境界線上のコミュニケーションだった。

・・・・・その間に故郷ヨーロッパではナチスの軍靴の音が高まっていた。やがて彼女は意に反して患者に連れ添って故国の病院に赴任するべく、帰国することになった。
多くの人々に惜しまれながら帰路につく駅舎。
彼女が乗った客室は、思わぬ感謝の花束で一面に飾られていた。帰国を見送る人々の駅舎の端には、フォチュナティ医師も目立たぬように立って帽子を振っていた・・・・。
こうした「永遠の別れ」のほうが、互いに心通い合う者どうしにとって深い余韻が残るのだろう。とても感慨深い。

私はまがりなりにも仏教文化国の末裔なので、「袖触れ合うも他生の縁」などという言葉がどうしても浮かんでくる。

やがて戦争が始まり破竹の勢いでナチス・ドイツ軍がオランダ、ベルギーを侵略、占領。
ここが大事なポイントなのだが、カトリックの修道僧たちは戦場の敵味方には、いずれの側にも加担してはならない掟のようだ。
すべての負傷した人々の介護に従事する。だから政治的な活動は一切ご法度。
それがまたシスター・ルークを苦しめることになる。なぜなら彼女の家族はナチスとの戦いの渦中にある。

家族からの手紙といえど、本来は院長経由でしか開封できないが、密かにレジスタンス運動をしている女性看護師の機転で、直にもたらされた急報。
誘惑に負けて、思わず開封してしまった。

それは、彼女の最愛の父親が、ドイツ軍の機関銃掃射で殺されたという悲報。実弟からの手紙だった。彼は立派に成人し、今ではレジスタンス運動に身を投じている。地下組織に必要なので、姉の看護の協力も要望している。彼は姉の出家を、あえて見送らなかった弟だ。

ここにいたり、とうとうシスター・ルークの苦悩は頂点に達した。
神に仕える身の尼僧としては、ありのままの事実を神の試練として甘受するだけしかない。憎しみや報復は世俗の感情。それに身をまかすことはならないはずだ。

主人公は煩悶の果てに、とうとう「還俗」を決意する。もはや、尼僧であることに闘い疲れたのだった。

苦しむシスター・ルーク
苦しむシスター・ルーク

このようにストーリーの表面をなぞるだけなら簡単だが、シスター・ルークの苦悩と決断を本当に理解共感することは、なかなか難しい。そこに「信仰」が介在するからだ。
真面目なクリスチャンほど深く理解できるのではないだろうか。ヘプバーンの演技が秀逸だ。

弟の手紙を届けてくれた修行中の女性看護師。
実は、レジスタンス運動にもこっそりと従事している。それに気付いても咎めずに許している。だが、自分はそういう器用な生き方ができない。
シスターとして修道院の掟を破ることはできないのだが、この後輩に対しては「あなたは良い尼僧になれる」と励ましてもいる。
尼僧である以上、神の掟は絶対だから人間の意志や感情などはとっくに捨てたはずだ。かといって後輩にそう訓戒することも、またできない。つまりは自分自身にある矛盾を誤魔化すことができない。

結局、コンゴでであったフォチュナティ医師の指摘が最も正鵠を得ていた。
「君は自分の意思を持っている。それは尼僧に向かない。その矛盾こそ病の本質だ・・・・」

今にして思えば、無神論者の彼の言葉はシスター・ルークに対する、精一杯の「愛情表現」でもあったのだろう

しかし、彼女は決して世俗世界を恋しがって還俗するのでもない。むしろ、向かう先はレジスタンス運動なのだ。そこには愛する父を殺した侵略者ナチスへの「怒りと憎しみ」があり、血を分けた弟との共戦の思いがある。
ここはヘプバーン自身の人生体験も反映しているのだそうだ。
実生活上のヘプバーンも、叔父や従姉妹をナチスに殺されているようだ。

こう考えると、事態は複雑だ。一人の尼僧だけの問題ではない。
映画の制作された1950年代後半のこの時代、つい10数年前まで世界を巻き込んだ壮絶なナチスとの闘いに、カトリック教会はいかなるスタンスを取ったのか、という問題提起でも有り得る。ユダヤ人迫害を敢えて見逃したのだろうか。

映画の終わりはつらい場面だ。
受付係の尼僧の蔑むような視線を浴びながら、平服に着替え、一人で僧院を出てゆくガブリエル娘の後ろ姿。カメラはあくまで修道院内に留まり、立ち去りゆく彼女の背中を追う。孤独な寂寥感が漂う。

通りに出た主人公は一瞬左右をためらうが、すぐに向かうべき方向を見定めて歩み、画面から消える。とても象徴的な結末だ。
観客は、僧院に残される寂しさを味わうことになる。

ここで間違ってはならないのは、彼女は修道院は去ったが「神」と訣別したのではない、ということだ。

なのに、なぜかくも清純で一途な信仰者がここまで苦しまなくてはならなかったのだろうか。17年間の尼僧生活だった。
21世紀の今、こんなに苦しい思いをするなら、初めから「尼僧なんか志さなければ良かったのに」、と短絡的に思う人が多いだろう。

しかし、内容の乏しい人生に憂き身をやつしている、貧弱な生き方がそこにある、と指摘するのはお節介だろうか。仏教的に表現すれば、五欲を満たすだけなら「六道輪廻」に終わってしまう。私は自らの反省も込めて、地上の世俗世界を相対化するという精神行為は、やはり人間に必要ではないかと思える。その日暮らしから一歩引いた地点で、自分を省察する「とき」と「場」が必要ではないだろうか。
世俗化の進展が精神性を貶めてきたぶんだけ、人間が劣化してきたことは否めないのではないだろうか。
大きく拡げれば、地球環境の危機もそうした人間自身が招いた「自業自得」ではないかとさえ思う。無制限な欲望追求が人間自身を破滅の淵に立たせている。むき出しの欲望の衝突が人々を分断し、国内の騒乱や国際紛争にもつながっているのではないだろうか。

ガブリエル嬢の苦悩は、信仰が破綻したからではないだろう。
むしろ真摯に格闘してきたことがよくわかる。キリスト教世界でこの映画の評判が高い理由だろうと思う。

むしろ、私が一番気がかりなのは「神」が彼女の行為をどう裁くのだろうか、という素朴な疑問だ。

キリスト教の信仰を持つ人々のご意見を謙虚に伺いたいと思った

“映画「尼僧物語」 The Nun’s Story” への1件の返信

  1. 戒律、主教の指示を拒否、神に仕える道をすてレジスタンスへ。完全に決別したかどうかは不明であり、余計な判断を強要してはいけません。

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