父と「蟻の兵隊」・・・・バカな戦争だった

父から教えてもらったのは
「兵隊さんはつらいかネー、また寝て泣くのかヨー」
だったように記憶するのだが、調べて見ると
「新兵さんは可哀想だネー、また寝て泣くのかヨー」
のほうがポピュラーだったようだ。
様々なヴァージョンがあったのだろう。
消灯ラッパの節に合わせて、こっそり布団の中でこう歌うのだそうだ。

過酷な軍隊生活の辛さをよく表現している、もの悲しい台詞とメロディーが子供心に残った。

過保護に育てられ子供のころは虚弱だったという父も、非人道的な軍隊生活でさぞ苦労したことだろう。

ちょうど私たちは、「傷痍軍人さん」を目撃した最後の世代だと思う。
帰還兵の物悲しい姿を、街角で見た記憶がある。
戦闘帽をかぶり、松葉杖をつき、よれよれの白い上っ張りを身に纏い、アコーディオンを首から下げて路傍で軍歌を歌っていた。
募金箱が足元に置かれていた。
子供心にも哀れだった。
あの戦争は、大人の間では「大東亜戦争」と呼ばれていた。

軍隊再修正版
父が残した写真

昭和18年学徒兵として招集された父は、相模原で通信将校の訓練を受け、昭和19年暮れか20年初めに中国に出征した。
おそらく遺影のつもりだろう、盛装した写真が残っている。陸軍少尉だった。

昭和19年12月
昭和18年、出征記念の写真らしい 刀は先祖のものだが、武装解除で没収されたという

博多湾を出航した輸送船のデッキから岸壁を眺めながら、
「これで日本ともお別れだ」
と思ったという。
大正10年生まれだから、当時22,3歳。
着いてみたら、任地は中支・漢口だったという。
「軍機」というのだろうか、事前には知らされない。
兵の運命は「帝国の軍命次第」でどうにでもなる。

8ヶ月の戦地での軍隊生活の後、日本はあっけなく無条件降伏し国民党軍に武装解除された。
1年近い抑留生活の後、上海(もしくはニンポー)から復員船で東シナ海を渡り横須賀にたどり着いた。港で全身にDDTを振りかけられたという。
直接経験したことなのか、伝聞かはわからないが、復員船上ではかつて軍隊で苛められた下級兵士が反乱を起こし、上官を粛清したなどということもあったようだ。
敗戦の混乱と人心の荒廃。

当時の国鉄貨車でノロノロ運転、やっと故郷に着いたと思ったら、すでに空襲で駅舎は焼失し、土が盛ってあるだけの岐阜駅だった。

千手堂交差点、左下に徹明小学校
一面、焼野原の岐阜市。写真中央部あたりに実家があった。左下に父や叔父の通った徹明小学校のグラウンドが見える。

降り立って驚いた。
市街地は完全に焼失して、一面焼け野原。なんと、岐阜駅から長良川の土手が見えていたという。川と駅の間が市街地だったのだ。
「これでは両親も生きてはいまい」
と思ったそうだ。もちろん、家族とは音信不通だった。

まじかに見える金華山と長良川を見て、まさに
「国破れて山河あり」
と痛感した。
駅から徒歩15分くらいの実家周辺も、やはり完全に焼失していた。
あたりは一面の焼野原。呆然とした。敗戦が身に染みた。
多くの国民がそう感じたことだろう。

しかし祖父母は空襲で焼かれたとき、死にものぐるいで長良川の堤防つたいに逃げて命拾いしたらしい。恐怖で腰が抜けて歩けなくなった祖母を祖父が頬を張り倒して立ち上がらせ、共に命からがら逃げ切ったのだという。敗戦の直前だった。
記録によれば、岐阜大空襲は昭和20年7月9日深夜、飛来したB29はなんとのべ130機だったという。上図写真の中央部あたりに実家があった。戦前の記録は完全に消失してほとんど何も残っていない。
さぞかし恐ろしい体験だったろう。

その前に、名古屋市内の中心地にあった祖母の実家も大空襲で焼失。
江戸時代から続く尾張徳川藩御用達の広壮な商家だったらしいが、すべてなくなっていた。曾祖父はやむなく娘夫婦の岐阜に疎開したが、意気消沈して、そこで死んでしまった。昭和20年5月のことらしい。
「神国日本は必ず勝つ」と素朴に信じていたという。
夢物語のような話以外に、先祖の遺物はほんとんど何も残っていない。

同じ頃、漢口にいた父の枕元でしきりに自分の名前を呼ぶ曾祖父の声を、父は確かに聞いた、と私に何回か語ったことがある。
自分を格別に可愛がってくれた祖父(私には曽祖父)が死んだのだなと、直感したという。
いわゆる「蟲の知らせ」というのだろうか、不思議な思い出話だが、同じ類の話は世間にも多い。

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戦地にて

祖父(父側)のほうは神戸市御影に実家があったようだが、神戸大空襲(東神戸が壊滅した昭和20年6月ではないかと推測される)以来まったく音信不通になって今日に至る。全滅したようだ。以来、先祖との繋がりはまったく途絶えた。

愚かな戦争が、私達子孫と先祖との系譜に大きな断絶を刻んだのだと思う。

父方の曾祖父は職業軍人で日露戦争に出征した人らしい。奉天会戦でコサックと闘った騎兵連隊長だったという。戸籍によると幕末・嘉永年間の生まれ。つまり父方先祖は「士族」(鳥取藩士)だったのだというが、戦災で溶けてしまった日露戦争の勲章と、戸籍以外には何も残っていない。
大村益次郎が大阪鎮台で日本陸軍を創設したときに、鳥取藩士が多数採用されたという歴史事情は最近になって知った。曽祖父もその一人だった可能性があるが、確証はない。

父は晩年、戦友会を大切にしたが、何度も「馬鹿な戦争だった。」とも語っていた。
「学徒兵は惨めだった。戦って死んだならまだしも、半数は劣悪な軍隊生活が原因で戦病死したんだから。生き残っておれば、どれだけ日本の再建のために貢献した人たちだったか。」
それ以外の戦争体験は余り多くを語らなかった。

昭和45年11月25日に三島由紀夫が自衛隊に決起を促して果たさず、自決した時には
「馬鹿なことをする!」
と本気で怒っていた。
高校生の私はちょうど三島の小説を何冊か読んでいて、その華麗な文体に感心していた頃なので意外に感じた。

ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」は、わずか八ヶ月の父の実戦体験などとは比べものにならない、壮絶で不条理な戦場体験だ。51AU4xesCaL__SL500_AA300_

はじめに出てくる靖国神社の場面。主人公奥村和一さんは
「国に取られ、侵略戦争で戦って死んだ者は神ではありません。ごまかしは許さない!」と断言する。

奥村さんは当然、参拝はしない。
その靖国神社が近場だからと初詣に来ている、今どきの若者と談笑する場面。
屈託のない若者たちには、英霊や奥村さんもまったく遠い未知の世界の出来事だから、会話は最後までちぐはぐ。
そのことが、かえって奥村さんたち「蟻の兵隊」の境遇を暗示する。

奥村さんも支那派遣軍の一兵卒だった。普通なら父と同じく昭和20年8月に武装解除され、日本に帰れるはず。

ところが、山西省では上官の命令で2600人もの将兵が残留し、戦後も国民党軍とともに八路軍(現在の人民解放軍) と戦ったという実話。そして4年近い戦闘でなんと550人も「戦死」した。すでに戦後なのに。こんなことが許されるだろうか。
奥村さんも瀕死の負傷を負い抑留生活が6年余り。

昭和20年8月15日以降、満州を除く中国大陸で実に5万もの日本軍将兵が戦死しているとは知らなかった。戦争は少しも終わっていなかったのだ。重大な事実だと思う。

やっと帰国できたのは昭和29年。ところが「中共のアカに洗脳された」とか「勝手に残留した」とか言われ、公安にも監視された。だから、長男だったが新潟の実家には住めなかった。
結婚した奥さんには、戦争のことは一切話さなかった。まずは生きてゆくことで精一杯だったという。

晩年に入り、奥村さんたち「山西省残留部隊の生き残り」は「日本軍」として昭和23年まで中国の国共内戦を国民党軍とともに戦って、多くの戦友が戦死したという事実を、どうしても国家に認めさせないと死ぬにも死ねないと立ち上がったのだった。このままでは戦友もうかばれないという、やむにやまれぬ思い。
その無念さは、戦病死した同期の学徒兵の不遇さを語った父の思いとダブる。父も晩年は戦友の最後を目撃した者として、遺族を訪問して歩いた。

残念ながら、戦後補償裁判では奥村さんたちの訴えはまったく認められなかった。司法がこれを認めるということは、日本軍関係者がポツダム宣言違反をしたことになるからだという。同宣言では無条件降伏した日本側に、すみやかな武装解除と帰国の義務が課せられていた。奥村さんたちの訴えを、今更国家が是認するはずはない。

しかも、山西軍閥・閻錫山との密約で、残留日本軍はいったん「現地除隊」したことになっている。そこには澄田第一軍司令官ら戦犯に指名された軍幹部の狡猾な保身があった。
下っ端にはそんな事実は秘せられ、あくまで日本軍の上意下達の命令で残留させ、日本軍として山西軍とともに戦ったのだ。
本当は皆帰国したかったが、旧軍特有の情実をからめた上官の命令に近い説得に、抗うことなどはできなかったのが真相だ。
こうして、奥村さんたちは「勝手に残って共産党軍と戦った」のだということになっている。
ところが、残留部隊の総隊長の軍命の物的証拠、証言は確かにある。
日本軍は解体して国民党軍に編入されたのではない。実質的に部隊編成を維持しながら、国共内戦で国民党軍側について戦闘を継続したのだった。

それを中国に行って確認する奥村さんの旅は、あの戦争の真実を残すドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」になった。ここに着目した池谷薫監督の慧眼に敬意を表したいと思う。

奥村さんの旅は、「記憶」との重くてつらい出会いでもあった。

初年兵として、初めて中国人を刺殺した「胆試し」の刑場跡。
一人前の兵隊になるためだった。奥村さんが刺殺したのは、当初予想していたような無辜の農民ではなかった。日本軍の施設を守る中国人守備隊員だった。

八路軍に攻められたのに、警備員としてのつとめを果たせなかったための、みせしめ処刑だという。それを奥村さんたち初年兵の殺人訓練に利用したのだった。

処刑した遺族に質問しているうちに、奥村さんの声音は中国人警備員がなぜ八路軍と戦わなかったのかと、思わず昔の兵隊に戻っての詰問調になってしまっていた。
我に返って「私の中には今もあの軍隊での教育が残っていた」と述懐する。80歳になってもまだ、その刷り込みが意識下から飛び出てきたのだった。

更に、日本人としてとても辛いのは、当時わずか16歳で日本軍に輪姦されたという証言者の老婆との出会い。老婆がたんたんと語る凄惨な体験は余りにも酷い。
「鬼」と呼ばれ恐れられた、日本軍の罪深い戦争犯罪の、ほんの一端に過ぎないだろう。

奥村さんは勇気を持って、自らが戦争の被害者であると同時に、実は加害者のひとりでもあったという冷厳な事実と向き合った。
いまだに、多くの日本人がきちんと向き合っていない真相だと思う。むしろ居直ったような暴論が多い。それがまた被害関係者を深く傷つけている。
「潔さ」をひとつの徳目とする、武士道の日本人として、恥ずべきことだと思う。
また、アジアの被害者と感情的な非難合戦をしても、意味のある結論には至らないだろう。分断を深めるだけだ。そのぶん平和は遠のく。

そしてついに、多くの戦友が無念にも命を落とした苛烈な戦跡にたどり着いた。
そこは、八路軍との地獄の白兵戦場。
奥村さん自身もここで戦い、からだ中に砲弾の破片が今も残っている。生きているうちに一度は来てみたかった。
昭和23年だというのに、多くの戦友が「天皇陛下万歳」と叫んで戦死した慟哭の戦場。このシーンにはさすがに息を飲んだ。余りも無慚。
言葉では言い尽くせないあの戦争の残酷さ、不条理さを突き付けられる。

同監督の著書「蟻の兵隊」によると、この史実は国家的な犯罪の可能性もあるという。ノンフィクション作家保坂正康氏の指摘では、アメリカとの戦いに負けると予想した大本営参謀本部は、中国大陸の占領地に帝国再興のための橋頭堡を確保しようと密かに画策して、内々に軍隊の残留を命じていた可能性が高い、というのだから驚く。

澄田第一軍司令官が当時の山西省軍閥・閻錫山と極秘裏に密約した背景には、大がかりな日本軍中央の謀略があったのかもしれない。
この閻錫山という軍閥は日本の陸軍士官学校出身で反共親日だったという。支那派遣軍上層部とも内通していた。
閻は国共内戦に敗戦後の日本軍を利用しようと画策したのだ。
「事実は小説よりも奇なり」で、山西省軍と日本軍の戦闘は少なく、むしろ圧倒的に八路軍との戦いのほうが多かったという。
山西省軍の軍事行動には、蒋介石の国民党中央軍とも微妙な距離があった。むしろ閻は山西省の独立軍閥を志向していたからだった。

だから、山岳地帯に逃げ込んだ閻の軍隊よりも、農村を支配していた八路軍のゲリラほうが日本軍の主敵だったらしい。

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八路軍

このことは、父のわずかな戦争体験とも符合する。
国民党軍は弱かった。しかし、日本軍は要所要所を点と線のごとくに占領しているだけで、広大な農村地帯には八路軍ゲリラが潜んでいたという。どこから八路軍が奇襲してくるかわからない。反撃しようとした時にはすでに八路軍は姿を消していた。
毛沢東・朱徳の戦術だった。すでに民衆の支持を得た八路軍(後の人民解放軍)のほうが優勢だったのだろう。

山西省公文書館に日本軍が証拠隠滅し損なった書類が残っていた。
奥村さんたち「蟻の兵隊」は上官の命令で残留し、残留軍の隊長訓「皇国ヲ復興シ天業ヲ恢弘スルヲ本義トス」るために日本軍として戦ったことが明らか。決して閻錫山軍に編入されたのではない。
やはり、日本軍が戦後も一部組織を温存して、国民党軍とともに共産軍と戦ったということが真相なのだ。

しかも、そのあいだになんと司令官の澄田という男は、閻の紹介状までもらって偽名を使って、先に日本に逃げ帰ってしまったというから、その卑劣さに驚く。
最近、「児玉誉志夫 巨魁の昭和史  有馬哲夫著 文春新書2013年刊」を読んで、たまたまこの澄田という男の黒い足跡を知った。
「しかしこの澄田は、49年2月12日にアメリカ軍の飛行機で現地の太源から離れ、青島と上海を経由して2月20日に帰国している。岡村(注 支那派遣軍総司令官)と日本で合流して中国共産党に対する反攻の狼煙を上げるために日本に送還されたということは疑いの余地がない。事実、彼らは帰国後しばらくすると『台湾義勇軍』(アメリカ側は『日本人義勇軍』と呼んだ)の募兵活動を始めている(同91ページ)」
今度はアメリカの反共政策に便乗したのだろう。国が亡びるということはこういうことなのだろうか。軍人の節操などハナからないのだ。何かしら「戦後ニッポン」に隠された「欺瞞」を垣間見るようだ。

もともとは連合国の戦犯訴追を免れるために、残留日本人部隊を手土産に閻錫山と密約を結び、姑息に生き延びようとした。今度は国共内戦の形成が悪くなり、八路軍に捕まれば戦争犯罪を裁かれると読んだ。それで、部下を見捨てて自分だけさっさと逃げ帰った。
NO2の山岡という参謀長も偽装して逃亡。東シナ海の帰国船上で、いつ正体がばれるかもしれないとビクビクしながら日本に逃げ帰った。
これも状況は異なるが、父の話と符合する点がある。正体がバレると身内の粛清を受けるかもしれなかった。

結局、奥村さんたち残留部隊は置き去り、見捨てられた。

こんな非道なことをしておいて澄田は、国会では「自分は全軍の帰国に尽くした」と「証言」している。下ッ葉の残留部隊は上官の命令通り、何も知らされずに国家再興を信じて命がけで戦い死んだのに。
こういう類の人物が、のうのうと戦後を生き延び、要職に復帰した事実はほかにもありそうだ。そういう手合いとその子孫が、戦前を懐かしんで、昨今はその復活を策謀しているようにも見える。そこに「戦後レジームの否定」感情があるのではないだろうか。

当時戦った相手の八路軍の生き残りも、この事態を不思議に思ったと証言する。すでに日本国は降伏しているのだから、武装解除さえすれば生きて故国に帰れるのに、なんのために日本兵は閻とともに自分たち共産軍と戦うのかと。
しかし奥村さんたちは、「閻の傭兵」として戦ったのでは決してなかったのだった。

戦争という極限状態の中で、兵卒を犠牲にして卑劣に生き残った上層部将官。兵と共に最後まで死線を戦い抜き、死んでいった現場指揮官。何も真相を知らされずに、皇国の再興を信じて散って行った兵隊たち。無駄な戦闘で傷を負い敗残兵となった人々。
それぞれの赤裸々な人生模様があった。

そういえば、母はよく
「私たち大正世代は損よ。皆、青春時代は戦争の犠牲だもの。」
と言っていたし、父と1歳違いの叔父は
「大正世代はさんざんな目にあった。明治(生まれ)世代がムチャクチャなことしたからな。」
と述懐していた。

無題
映画「蟻の兵隊」より

偶然かもしれないが、奥村和一さんのふとした一瞬の表情が、亡くなった父や叔父のそれにそっくりなのにも驚いた。

山西省残留部隊の悲劇を知って一番に思い出したのは、私の友人が勤めていたある大手都市銀行の倒産劇。これは現代日本の実話。

ある支店の課長として殺気立つ取り付け騒ぎの中、最後まで現場を督励し窓口を守ったのは、結局、課長だった彼とその8人の部下のような「蟻さん」たちだったのだ。
銀行のトップは形勢悪しとみて、いち早く多額の退職金を懐にして、さっさと先に逃げてしまっていたのだという。
戦争ではないけど、本質的には同じことだろう。

結局、日本人は同じことを繰り返しているのではないかと思う
変わってはいないのだと思う。

この世界では今も形を変えて、あちこちで恥知らずな所業が積み重ねられているのかもしれない。

ひとりの人間の尊厳をすら護る気のないものたちが、尤もらしい大義名分を鼓吹する。
その実、他人の不幸の上に、自らの保身や栄達を図るのだ。
こうした手合が権力の座にあるような国家は、決して「正義と真実」を実現しない。

映画の最後はまた靖国神社の場面。
ルバング島から生還した小野田さんが、いわば生きた「英霊」として称賛されている。奥村さんがその小野田さんに近寄って
「小野田さん、侵略戦争を美化するのですか」と詰問。
これに対して小野田さんが激高しながら
「開戦の詔勅を読みなさい!」
と声を荒げる。

生死をかけて戦った戦友の間でも、こんなに深刻な分裂があるのだから、いわゆる歴史認識問題の決着はほど遠い。

しかし、主人公の奥村さんも小野田さん、そして父も叔父もすでにこの世にはいない。当事者の実体験をなるべく正確に残す作業も、もうあまり時間は残されていない。

今や次世代の我々が歴史の試練に晒されているのだろう。
その次の世代にはあの戦争の痕跡もない。かつてアメリカと日本が戦争したことすら知らない若者もいる。

「蟻の兵隊」はとても貴重なドキュメンタリー映画であると思う。たぶん山西省だけの話ではないのではないか。

二度とあんな戦争を起こさせてはならない。
とともに、人間自身に生来内在する「邪悪さ」を見逃せない。人の心は変わらないのではないかと痛感した。
だから、その不条理さは「過去の物語」ではなくて、いざとなれば表面は違った形かもしれないが、「現在進行形の物語」として再登場するのではないだろうか。

政治体制や仕組みを変えるだけでは、本質的な解決にはならないのだろう。道徳や精神修練だけでも、心の本質はそう容易に変わらない。

だから「民主主義を信ずれば不幸になる」などという、無責任なタイトルの本が横行する。
一見真相を衝いているようで、その実は無力感を煽るだけの、あざとい売文稼業。何のことはない、現状を追認する効果を生んでいるだけではないだろうか。
そうした言論空間の欺瞞性が、社会全体の衰弱を招いているのかもしれない。

「戦争責任」の最終決着が困難なのは、問題の根っこが人間性の深く暗い闇に根ざしているからでもあるのだろう。他人を非難して溜飲を下げる感情論だけでは本当の和解の道は開けない。
むしろ、偽善的な政治屋が駆け引きのカードに利用しかねないところをちきんと見抜かないと、事態の解決がかえって遠のくだけではないだろうか。

タチの悪い政治屋たちに限って「平和のため」とか「国民を守るため」とか、もっともらしいスローガンで自らを偽装しながら、こっそりその真逆の方向に世界を導いてきたのが歴史の教訓だろう。むかしも今も。

そして、そういう連中自身は終始「安全地帯」に生息しているのだ。その毒牙の犠牲になるのは、たいてい真実を知らされていない現場の人々なのだ。

今はやりのデマやフェイクに踊らされていると、また新しい「蟻の兵隊」を生み出すことになりかねない。
騙されてはならない。

こんな「いんちき」とは闘わないといけないと痛感した。

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