フルシチョフ回想録を読む その2

フルシチョフは、同時代の人物をクレムリンの視点から率直に綴っている。
「その1」で書いたように、現場から叩き上げてきた実践家なのだろう。理論を弄ぶタイプではないので、イデオロギーや政治文化の違いにも現実的で柔軟な対応をしているように見える。
スターリン主義を告発して、本来のマルクス・レーニン主義に戻ることを標榜しているが、必ずしも凝り固まった教条主義者ではないように思う。

エジプトのナセルのクーデターについても、慎重に値踏みした上で援助の手を差しのべた。その結果のひとつとして形に残ったのが、アスワン・ハイ・ダム。これは友好の成功例として挙げられている。

ナセルとフルシチョフ
ダム建設のボタンを押すナセルとフルシチョフ

フルシチョフ自身も
「歳月が重なるうちに事態は変わった。我が国の経済、我が国の軍事力、そして国際問題における我が国の影響力は、いずれも大きく増大したので、1956年には、われわれはそこに踏み込んでナセル大統領とアラブ人民を援助することができるようになっていた。・・・・・われわれの動機は、自己本位な、商業上の利害ではなかった。・・・・・われわれはただ、それらの国の人々が植民地支配者への屈従というくびきを投げ捨てるのに力をかしたいと望んだのである・・・・われわれをうながしていたものは、近東における高貴な使命であった・・・」(437項)
という具合に胸を張っている。

確かに、5000年の歴史を持つエジプトは「ナイルの賜物」と言われるほどだから、その文明の象徴に本格的なダムを建設するというロマンチックな事業には、心躍ったことだろう。他の発展途上国に対しても「社会主義の成果」として宣伝効果が大きい。

この時代は「東西冷戦」というシナリオに、第3世界の「植民地支配からの独立」という筋立ても交差した。しばしばそれが、解放のための武力闘争という形をとったので、それを支援すれば社会主義ソ連の勢力拡張というメリットに繋がった。経済の復興をめざす新興独立国も、計画経済の社会主義を政治モデルとして採用したのだ。
あらかじめ社会主義革命を志向して独立運動を起こしたのではない場合もあった。それが西欧植民地主義への闘争理念としてあと付けのように「社会主義」が採用されていった、という経過が多かっただろう。
はじめから共産主義を標榜したヴォルシェビキのソ連が、こうした独立運動を応援した意図とは、意識のうえで微妙な「ずれ」がある。民族独立運動を力で押さえつけようとした西欧の植民地主義が招いた、20世紀の教訓だと思う。日本の(帝国)植民地主義などもその真似事で、未熟な失敗例のようなものだろう。大英帝国の植民地経営などの狡猾さには、遥かに及ばない。

キューバ革命に際して、初めは慎重にカストロの政治姿勢を値踏みした。フルシチョフは、やはり冷静だった。カストロの「イデオロギー」が判然としなかったからだ。

フィデル・カストロ
フィデル・カストロ

しかし目と鼻の先にある強大なアメリカを前に、革命政権は存亡の際にあった。その対抗上、背に腹は代えられない。ソ連に経済・軍事援助を求めた。そして、フルシチョフはやはりキューバの地政学的な位置に注目した。

「・・・・キューバに核弾頭をつけたミサイルを据え付け、合衆国が何か手を打とうとしても手遅れになる時期まで、その存在をさとられぬようにするという考えを抱いたのは・・・・」(500項)フルシチョフその人だった。

「重要なのはキューバにわれわれのミサイルが据え付けられることによって、合衆国はカストロ政府に対して軽率な行動に訴えるわけにはいかなくなるということだ・・・・アメリカはわが国を軍事基地で包囲し、核兵器で脅かしているが、いまや彼らは敵のミサイルが自分に向けられていればどんな感じがするものかさとるだろう・・・・。
アメリカ人は自国の領土で戦争を戦ったことがない。少なくとも過去50年のあいだその経験がないのだ。アメリカは二つの世界大戦で海外に軍隊を派遣したーーーそのおかげでひと財産こしらえた。・・・・巨万の富をきずいたのである・・・」(501項)

アメリカというブルジョア国家の、大戦への参戦理由を「金儲け」と断定しているところが面白い。参戦の大義名分などハナから信用していない。そして、それは真相の一端を言い当てていると思う。「自由」とか「民主主義」とか、最近は「人権」などの概念も狡猾な国家エゴを正当化するためのタテマエに使われるので注意が必要だと思う。
政治の罪深さは、人の心を利用し蹂躙する。

ベルリンでは一触即発の対立状態が続いていた。ソ連は、トルコにアメリカがミサイル基地を設置したことに強い反発を持っていた。その対抗上の措置として、キューバへミサイル基地を構築するというプランに、フルシチョフ自身が乗った、というのが真相のようだ。

「私はひとつのことをぜひ明らかにしておきたい。すなわち、われわれはキューバに弾道ミサイルを配置したとき、戦争をはじめたいという望みなど持っていなかったということである。・・・・」(502項)

これは率直なホンネだと思う。フルシチョフも軍事「抑止力」の信奉者だったのだ。
こうして、キューバ危機はマクマナラの解説通りに事態が推移した。

フルシチョフの側から見た経過は
「・・・・私はそれらの日々をありありと覚えている。ケネディ大統領とのやりとりをとくによく覚えているというのは、私がそのきっかけをつくたからである。・・・・・・」(504項)

クライマックスが訪れたのは、それ(キューバ危機勃発)から5、6日後、・・・・大統領の弟、ロバート・ケネディがワシントン駐在のドブルイニン大使を訪れたとき。
ドブルイニンの報告によればロバート・ケネディはかなり憔悴していたようだった。
ロバートは「兄大統領は容易ならぬ立場に立たされている、大統領はキューバを巡って戦争を始めることに反対だが、軍部が自分を倒して、権力をにぎるかもしれない」という。

ロバート・ケネディ
ロバート・ケネディ

フルシチョフは
「私は(ケネディが軍部に倒されるという)その可能性を見落とさなかった。・・・・しばらく前から、大統領が軍を統制する力を失う危険が存在することを感じていた・・・・われわれがメッセージの調子からよみとったのは、合衆国内部の緊張が実際に危機的な段階に達してるということだった・・・・」
と回顧する。

フルシチョフはクレムリンに届く様々な情報を総合して、ケネディ政権の内情をこう見ていたわけだ。
戦前の日本で起きた「ゾルゲ事件」を調べてみると、旧ソ連の諜報力は本当にすごい。敵対国の内情を正確に把握していた。日本のような極東の閉鎖的な島国の内情を、ワシントンやロンドンよりもモスクワのほうが正確に把握していたという。たいへんな諜報力だ。

おそらくフルシチョフのもとには、かなり精度の高いアメリカ政府内部の情報が集まっていたのではないだろうか。

いずれにせよ、マクマナラから見たソ連とフルシチョフから見たアメリカ、どちらも事実に基づいて相手の足下をよく見ていたと考えられる。インテリジェンスとは、彼我の全体像を慎重かつバランス良く把握することなのだろう。

ついに、偶発的な核戦争の危機は臨界点に達した。
2017年9月10日に放送されたNHKのスクープ・ドキュメントによると、このとき、世界最大級の規模だった沖縄の核兵器基地も発射寸前だった

そして、まるで断崖絶壁を登るような際どい交渉の果てに、ギリギリのところでケネディからキューバを進攻しないという約束をフルシチョフは取り付けた。
「カリブ海の危機に関するかんじんな点は、これによって社会主義国キューバの存在が保証されたことにあった・・・・」

勿論、陣営内に異論もあった。特に当事者のカストロはフルシチョフの決定に強い不満を持ったので、この後、急速にソ連との関係が悪化した。キューバには地元としての言い分があったのだろう。また、スターリン批判を巡ってソ連に対する反発を高めていた中国は、公然とフルシチョフの方針を軟弱外交だと批判した。強行姿勢を取らざるを得ない国内事情があったのだろう。
つまり、内外ともにさまざまな雑音はあったが、ケネディとフルシチョフという両雄の「信頼」と「英断」が、核戦争の危機をなんとか回避した、というのがやはり真相に近いようだ。
以下の告白は、特筆されて良い歴史の証言だと思える。

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「・・・・ケネディについて言えば、彼の死は大きな損失だった。彼は交渉によって国際的な紛争を解決する能力に恵まれていた。それは全世界がいわゆるキューバ危機の際に知ったとおりである。その若さにもかかわらず、彼はまことの政治家であった。もしケネディが生きていたら、ソ連邦と合衆国との関係は、現在よりもずっとよくなっていただろうと、私は信じている。なぜ私はそう言うのか。ケネディなら、自分の国をヴェトナムで動きがとれなくなってしまう羽目におとしいれなかっただろうからである。・・・・・」(512項)
と、ほとんど手放しで絶賛している。このケネディ評価は、後年のマクナマラ回顧録と軌を一にしていて興味深い。

そうさせたケネディも、やはり傑出した政治家だったといるだろう。

自らの立ち位置をしかと踏みしめながら、交渉にあたる。外交は究極のところ、当事者どうしの人間としての相互信頼が要なのかもしれない。

John F. Kennedy,
John F. Kennedy

キューバ危機を互いの信頼と自制(マクマナラ的に表現すれば、相手の立場を考える『理性』と『幸運』)で乗り越えたあと、冷戦構造にデタントという風穴を開けたことも、両人の大きな功績だと思う。

そして逆説的だが、デタント成功の延長線上に、反動としてのケネディの暗殺とフルシチョフの失脚を位置図けるのは考えすぎだろうか。
簡単に言うと、二人とも身内から「足を引っ張られた」のではないだろうか。

優れた人を自分の卑小なレベルに引きずり落とそうとする悪意や嫉妬は、洋の東西を超え、体制やイデオロギーの差異に関わらず存在しいて、「人間世界」に蠢く暗い衝動のように思う。
外部よりも「内部の敵」のほうが、危険性も毒性も高い場合があるようだ。

ところで、フルシチョフは冷戦を推進したアメリカの外交政策について、たとえば次の通りのエピソードを紹介している。

第2次大戦の英雄であったアイゼンハワー大統領は、人の良い軍人ではあったが、政治家ではなかった。米国の外交を決めたのは国務長官ダレスであった、と。

例えば1955年のジュネーブ会談について
「・・・・われわれとアメリカの代表団との会話はおおむね建設的で、どちらの側にとっても有益であった。もっとも、どちらの側も当面するどの問題に関しても、その立場を大幅に変えることはなかったのだが。・・・・ジョン・フォスター・ダレスがまだ生きていたからである。彼こそがアメリカの外交政策を決定する人間で、アイゼンハワー大統領ではなかった。・・・・」(402項)
アイクの発言は常にダレスのメモ書き通りで、フルシチョフたちの面前でも「まるで教師から指導を受けるまじめな生徒のように」振る舞ったという。

「国家の長ともあろう者が、他国の代表団を前にこんなふうに面目を失墜してかえりみないというのは、われわれには想像もできないことだった・・・・」(同)
かなり真相を言い当てているようなリアリティーがある。ダレスはかなり強引な政治家だったようだ。

アイゼンハワー(左)とダレス(右)
アイゼンハワー(左)とダレス(右)

ただ、フルシチョフは冷静にこうも付け加える
「ダレスが死んだ(59年)とき、私は友人たちに語った。彼は共産主義への憎しみをまきちらし、進歩を軽蔑した男だったが、つねにその演説で語っていた瀬戸際を決して踏み超さなかった。その理由だけでも、われわれは彼の他界を悼むべきだ、と。」(403項)

ここで「進歩」という懐かしい言葉をフルシチョフが使っていることに注目したい。素朴な共産主義者であったフルシチョフは、社会主義、共産主義への移行(革命)を歴史に必然的な「進歩」と考えていたのだ。
戦後の日本でも、我々の子供時代にはよく「進歩的知識人」などという言葉が使われていたことを思い出す。世界史には眼に見えない「歴史的必然」という動力が働いていて、資本主義は必ず社会主義、そして究極の理想である共産主義に「進歩」する、などという直線的な発想だ。
これは見方を変えると、ひとつの「信仰」かもしれない。今はその「進歩」史観が根本的に疑われているようだ。

まだこの回想記の発表された頃には激しい戦闘の最中なので、ベトナム戦争の帰趨についてフルシチョフは確定的な予想をたてていない。
まず、ホ・ーチミンを「・・・私は政治生活をつづけるあいだに多くの人々にあったが、ホ・ーチミンから受けた印象は非常に特別なものだった」(487項)とその好印象を回顧している。

「その生き方、他の人々に与える印象からして、ホー・チミンは・・・・革命の使徒だったのである」(同)
とまで賞賛している。「ホー」の振るまいや風貌には「宗教者」のような精神性の雰囲気があったのだろう。

しかし、表むきは歓迎の態度でありながら、その実スターリンの扱いはまことに冷酷だった。

スターリンが初めてホーにあったときの話。

ジャングルからはるばる出てきたホー・チミンは、クレムリンで子供のような純真さでスターリンのサイン欲しがった。しかし、そのサインを与えたあとで、スターリンはサインを記した雑誌を盗み取らせてしまった。スターリンはホー・チミンがそのサインをどのように使うか心配したからだ、という。
陰険な話だが、ここにもスターリンの根深い人間不信があった。この時期のソ連スターリニズムとベトミンとの関係を象徴するような話しだ。
そしてここには、うまく言葉に出来ないが、社会主義思想だけでは乗り越えられない、文明のより本質的な違いも瞥見できるように思う

ホー・チミン
ホー・チミン

54年、ベトナムの独立をめぐるジュネーブ会議で宗主国フランスが提案した北緯17度線を南北境界線にするという協定は、ソ連指導部にとっては内心、想定外の好条件だったようだ。あとは2年後のベトナム統一選挙までに、しっかりと地保を築いてしまえばよい、と考えた。
ところが、そこにアメリカのダレスが介入して戦争をしかけてきたのだと指摘している。それがベトナム戦争の根本的な原因だと考えているのだ。
そして抜き差しならない泥沼に、アメリカ自身が足を取られたと指摘している。

また、フルシチョフの言い分では、共産陣営ではこれまでソ連はベトナム民主共和国(北ベトナム)を社会主義の大義にもとづいて誠実に支援してきたのだという。それに対し、次第に影響力を増大し始めた中国の意図には深刻な懸念を表明している。

当初、中国は朝鮮戦争で消耗していて、とても北ベトナムを応援する余力など持てなかった。しかも、文化大革命(66年から77年)で国内は混乱状態だった。文革は実は大衆を巻き込んだ熾烈な権力闘争であって、その中でソ連派は力を失い、次第に中国は国際舞台で独自の頭角を顕してきた。もはやソ連にとって社会主義の盟友どころか、友好国ですらなくなっていた。

ホーチミン亡き後(69年)のベトナムが、ソ連のこれまでの無償の支援と貢献を忘れはしないか、とフルシチョフは危惧している。
つまり、ベトナムの後背地は決してなだらかな平地ではなかったのだ。共産主義が「一枚岩」だというのはやはり「幻想」に過ぎなかった。
ところがアメリカはじめ資本主義国では、共産圏の内情を誤認した上に単純な「ドミノ理論」を信奉していた。革命イデオロギーへの無智や偏見がこれを助長した。

フルシチョフの毛沢東に対する不信、敵対感情は深く激しい。毛沢東を油断のならない不可解な人物と見ている。これはスターリンの「個人崇拝」を批判したソ連に、毛沢東が反発したということだけではなくて、中国革命の生い立ちにも関係があるのだろう。
当初ソ連は、蒋介石にも色目を使っていた。

中国共産党の初期の段階では「輸入品」のマルクス・レーニン主義の正統理論を前提にした無産階級による都市革命路線が主流であった。しかし、都市蜂起に失敗し、毛沢東が構築した根拠地である農村に逃げ込まざるを得なかった。
そこで、それまで党内「亜流」とみなされていた毛沢東が31年の遵義会議で党の主導権を握った。このとき周恩来が毛を支持したことが党の帰趨を決定したという観測もある。

毛の「農村根拠地革命」という軍事戦略が、そもそもマルクス・レーニン主義の階級闘争論とうまく折り合わない。へたをすると単なる「農民暴動」と区別が付かないからではないだろうか。それは本家であるソ連から見て、社会主義とは無縁の、封建的風土のなかの「農民一揆」と解しかねない。
しかし、「水滸伝」を愛読した毛沢東は、中国の風土、伝統に根ざした農民による暴力革命を実現した。ソ連は中国の伝統的な土俗性を理解していなかったのだろう。

フルシチョフと毛沢東
フルシチョフと毛沢東

西側にはまだ充分察知されていなかったが、二人の意見は、ことごとく対立した。
フルシチョフによれば毛は核戦争時代の国際政治をまったく理解できないで、古い人民戦争の成功体験に固執した。

「・・・・明らかに我々の間にはかなり根本的な食い違いがあった。だが、われわれと中国との分裂は、さらにいっそう深刻化していった。・・・」(477項)
「・・・・毛沢東はまた、平和共存はブルジョワ的な平和主義の観念だと主張した。・・・そして無茶な中傷を行ってきた・・・・」(479項)
中ソ対立は69年にはダマンスキー島での深刻な軍事衝突にまで発展した。

こう見てくると、北ベトナムの後援勢力が如何に不安定なものだったかよくわかる。アメリカは、やはりマクナマラの言うとおり、相手の立場を見抜いてその隙を突くチャンスが充分あったといえる。
北ベトナムも苦しいバック・アップ事情を抱えていたのだった。
ベトナム戦争を、あれほどの消耗戦になる前に、もっと早期に収める方法を探るべきであったと結論づけられそうだ。

インドシナ情勢に暗い歴代大統領は、ダレスの反共政策に追随した。ケネディだけがピッグス湾進攻の失敗に懲りて、従来の政策を見直そうとしたのだろう。しかも核時代に入った冷戦は、マクナマラも当時指摘した通り「勝者なき戦争」であった。
そこから「デタント」へと路線転換できたことは、両首脳の功績と言って良いのではないだろうか。

だが、アメリカでは第2次大戦の戦勝国幻想に酔う軍部と、戦争ビジネスの旨味をもう一度味わいたい産業界の、いわゆる「軍産複合体」がその道を阻んだということだろうか。
何しろ、フルシチョフの言う通りアメリカは二度の世界大戦で「儲けた国」なのだ。

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