映画「The Fog of War」 その1 マクマナラが残した教訓

「私の人生は戦争とともにあった・・・・」

2003年ピューリッツアー賞のドキュメンタリー映画。
一度見始めると、途中で眼が離せなくなる。
「戦争の世紀」20世紀の重要な証言だと思った。

齢85に達したマクナマラ。しかし頭脳明晰だ。書類を見なくても40年前の統計数値、年月日がよどみなく出てくる。
独占インタビューの合間に、当時の映像記録やホワイトハウスでの録音記録が効果的に挿入される。切迫感のある音響効果が、マクマナラの関与した事態の深刻さ、その臨場感をつのらせる。

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1916年生まれ、人生最初の記憶は2歳のとき。
第一次大戦の勝利に沸くサンフランシスコの街。
ウイルソン大統領は「戦争を終わらせる戦い」に勝った、と宣言した。
しかし、それは完全に間違っていた。

マクマナラは語り始める。
「私の人生は戦争とともにあった・・・・」

インタビューに応えるマクナマラ
インタビューに応えるマクナマラ

1937年、若きアルバイト船員マクナマラが乗る大型客船が上海にたどり着いた、ちょうどそのとき日中戦争が始まった。まさか、それが後の日米戦にまでつながるとは、想像もしなかった。
マクナマラは、二度の世界大戦を経験した。


キューバ危機脱出の真相(1962年10月)

カギになる教訓は、当時のソ連首相フルシチョフの立場を忖度したうえで、撤退の道を促せたことだった。
そのヒントは当時の前駐ソビエト大使だったトンプソン(フルシチョフと家族ぐるみの交際をしていた)のアイデアだったという。彼は、ソビエトの国内動向とフルシチョフ政権の内情を知悉していた。影の功労者と言ってよい。
外交も究極的には「人間相互の信頼」だという好例。

これは、11の教訓のうち、
「Empathize with your enemy. 「敵の身になって考えよ」 の事例として紹介されている。

ベルリン危機のあと、発覚したソ連の密かなキューバ核ミサイル配備計画。
喉元に匕首(あいくち)を突き付けられたケネディ政権は、この危機をどう回避したか。実はケネディ自身も、交渉による解決を断念する寸前まで追い込まれていた。

キューバの核施設
キューバの核施設

緊迫した情勢を、全米に伝えるケネディのテレビ演説(10月22日)は有名だ。

アメリカは海上封鎖を行い、ソ連艦隊のキューバへの核ミサイル持ち込みを阻止。相手の出方を見た。両軍の接近で息詰まる一週間。国内、とくに軍部などが主張する先制攻撃への強い要求圧力にケネディは必死に耐えた。
結局、ギリギリのところでフルシチョフが輸送船団を引き返らせたので、全面戦争をからくも回避できた(10月28日)。
後の歴史検証で判明することだが、アメリカがトルコのミサイル基地を撤去することでフルシチョフとの取引は妥結したからだった。トルコの核基地については、フルシチョフも回顧録で取り上げている。
これは意外に知られていないと思う。西側の情報に偏っているからではないだろうか。

だから、妥結当時はケネディ外交の全面勝利に見えていた。政治宣伝はあざとい。実は引き分けだったかもしれない。

キューバ危機のテレビ演説
キューバ危機のテレビ演説

一方のフルシチョフは「アメリカはキューバに侵攻しない」という約束を勝ち取ったことで、国内の主戦派とカストロをなんとか説得しようとした。カストロはアメリカとの全面戦争を覚悟していたので、激しく反対した。 
 今どきの政治屋の安っぽい口先だけの外交とはレベルが違うと思う。
慎重に「落としどころ」を擦り合わせる「技術」が本来の政治なのではないだろうか。
たんなる「ディール」ではない。また、このような規模の危機では、より根本的には政治家に人類全体への責任感があるかどうかが鍵でもあるのだと思う。
みかけだけ勇ましい「敵地攻撃能力」などと、大衆迎合している暇はない。

更に、ケネディとフルシチョフとの間には、互いに信頼感があったようだ。指導者どうしで、胸襟を開いて話し合えるかどうかが決定的に重要だ。
かつてマッカーシーのデマ発言に便乗し「タカ派」を売りにしていたこの当時のニクソンにできただろうか。
近頃の政治屋の言動など、ほとんどマンガの類に見える。

ケネディ政権であったからこそできたのだという人の中には、だからこそ暗殺されたのではないか、という観測をする人も多い。

フルシチョフもケネディも、第2次大戦の惨禍を身をもって体験していたので、直面する核戦争に勝者のないことを十分認識していただろう。あとは国内の頑迷な主戦派をどう説得するか、という力量が問われたのだろう。

一方、毛沢東とフルシチョフの論争を見ると、どうやら毛沢東には人民戦争の成功体験に固執するあまり、核戦争のリアルなイメージが充分理解できていなかったのだろうか、キューバ危機を回避したフルシチョフを激しく批判した。あるいはフルシチョフのスターリン批判が毛沢東批判に連動する危険性を感じ取っていたからだろうか。もしそうだとすると、それは多分に中国国内の政局事情が反映していたかもしれない。外交と内政は表裏の関係にあるという。

ともあれ、二人はこの経験をもとに、初の「デタント」を実現した。
しかし、直後にケネディは暗殺され、フルシチョフもわずか2年後に失脚する。

ウイーンでのケネディ、フルシチョフ
ウイーンでのケネディ、フルシチョフ

アメリカの軍部、特にかつての対日戦争で無差別大量虐殺の空爆を推進したルメイなど(このとき、米空軍参謀総長。皮肉なことに太平洋戦争当時はマクナマラの上官だった)は、先制核攻撃を強く主張していた。主戦論のほうが多かったことだろう。

まったくきわどい局面だったといえる。

カストロにも言い分はある。
マクナマラが自分の立場なら、ソ連の支援を仰ぐだろう、と。強大なアメリカの鼻先にできた小さな反米革命政権が、生き残れるかどうかという局面、その切迫感があったからだ。しかし、冷戦構造のなかでは、いったん開いた戦闘の規模は小国キューバにとどまらない。
ただちに人類全体の破滅へと拡大する危険性をはらんでいた。

国防長官であるマクマナラ自身、自分が生存できるかどうかさえ自信が持てなかった、というのだからその深刻さがわかる。
・・・・・「1962年10月27日の金曜日の夜、床に就くとき、私は次の週まで生きていないかもしれないと思っていた・・・・」

キューバ危機
キューバ危機

人類滅亡の瀬戸際でからくも危機は回避された。
私は小学4年生だったが、ほとんど記憶にない。

恐ろしいことだが、1990年代になって判明した事実によると、キューバには当時すでに160発余りの戦術核兵器が配備済みだったという。事態はこの時当事者の知り得た情報よりもはるかに深刻だったことになる。背筋が寒くなるような真相だ。

2017年にNHKで放送されたスクープ・ドキュメントによると、このとき、世界最大級の規模だった沖縄の核兵器基地も発射寸前だったという衝撃の事実が明るみになった。

この一触即発の核戦争を回避できたことをマクナマラはジェスチャーたっぷり「運が良かっただけだ」と告白している。これも凄まじくリアルな証言だと思う。人類の存亡がかかっていただけに、その深刻さに圧倒される。この事実はもっと強調されてよいのではないだろうか。
核兵器廃絶への世論を、もっと強く促せると思う。

ケネディもフルシチョフもカストロも皆、それ相応に人としての理性を持ち合わせた人間だったと思う。ヒトラーのような狂人ではない。しかし、人間は弱い。だから

Rationality will not save us.
理性助けならない

将来、戦争がなくなるなどと考えるほど自分は単純ではない、とも述べる。

彼は「人間は必ず失敗するものだ。完全な人間などいない。3回しくじっても4回目に成功すればいい。だが、核戦争だけは失敗は許されない。」という。まったく同感だ。
通常兵器との次元の違いを認識すれば、核兵器の存在そのものを完全否定しなくてはならない。たった一回の失敗が人類滅亡に直結する。

教訓11にあるが、
You can’t change human nature.
「人間の本質は変えられない」

それゆえに後半生で核兵器の廃絶を訴え続けた。21世紀に残すマクマナラ最大のメッセージだ。

5番目の教訓にはしかし、やや違和感も持った。

Proportionality should be a guideline in war.
戦争にも目的と手段の”釣り合い”が必要だ

ここでは、第2次大戦の日本本土爆撃についてのエピソードを紹介している。マクマナラは爆撃の効率を上げるための情勢分析や具体案を策定するスタッフとして働いた。
ルメイ空軍少将(当時)は、たとえ対空砲火で友軍が撃ち落とされようとも、あえて低空飛行での焼夷弾攻撃を命じた。街を焼き尽くし、日本人の戦意を喪失させることを優先した。
そのため、日本の主要都市のほとんどが焼け野原にされ、さらには原爆が使用されることになった。日本を早期に降伏させれば、それだけ米軍の損害が少なくて済む、という非情な理屈だった。
それに、アメリカはソ連の影響がこれ以上拡大することをはやく避けたかったからだ。

しかしマクナマラは、これは「戦争犯罪」であり、戦争に勝つことが目的なら、ルメイのやり方は手段として間違いだったという。
司令官のルメイは先刻承知のことだった。
もし戦争に負ければ自分は「戦争犯罪人」だが、そもそも戦争は勝つことが目的であり、相手が屈服すれば手段は正当化されるというのだ。

そのルメイがケネディ時代には空軍参謀総長として、キューバへの先制核攻撃を声高に主張していたのだった。そして当時はルメイの方が「多数派」であったと思われる。ここに戦争を回避し得たケネディ政権の賢明さが光る。
今、アメリカにこうした政治家がどれだけいるだろうか。

今日ですら、日本への無差別爆撃や原爆投下を「戦争犯罪」と認めるアメリカ人は少数派だろう。マクマナラは、トルーマン元大統領を非難するわけではないがと前置きしながら、一晩で子供も含めて10万人殺した東京大空襲やさらに大規模な殺戮を敢行した原爆投下は、「戦争に勝つという目的には釣り合わない手段」だと強調する。
そして、自らも戦争犯罪者の一員であると明言した。これは公の場で、実に勇気ある発言だと思った。
「勝ったから許されるのか? 私もルメイも戦争犯罪を行ったんだ」
苦渋に満ちた告白だと思う。その誠実さには敬意を払いたい。

ここで敢て付言しておくと、トルーマンはすでに戦後の東西冷戦を念頭に、「アメリカによる勝利」を急ぐために核兵器使用を許可したのかもしれないという分析もある。あるいは、開発に投下したコストを正当化するため、なし崩しで原爆投下が実施されたとする見方もある。また背景には「人種差別」が透けてみるという意見もある。

東京大空襲
東京大空襲

平和な戦後を生きてきた自分だからかもしれないが、マクマナラのリアリズムには、そのまま首肯できない違和感も残る。
戦争の目的と手段の「釣り合い」などという考え方はそれ自体が受け入れがたい。
無差別爆撃の原因は「戦争にルールがなかったからだ」という。今後とも「戦争はなくならない」という冷徹な認識の上に立っているからだろう。

マクナマラは 21世紀においても、戦争はなくならないと述べる。しかし、戦争被害を最小限に食い止めることは可能だという。

確かに「戦争とともに生きてきた」世代ならではのリアリズムだと思った。
やわな情緒的な「反戦平和」では太刀打ちできない。

先般の日本の安全保障法制論議もリアリズムが勝利した結果なのだろうか。「集団的自衛権」は憲法学では「違憲論」が大勢で、逆に安全保障の専門家の間では賛成が多かった。
この政治判断が正しかったかどうかの判定は、後世の検証によるのだろう。
しかし、憲法改正(特に9条)の必要性はむしろ低下したのではないだろうか。

今どきの、不勉強で粗悪な政治屋連中の「たちの悪い改正論」が国民の平和と幸福に寄与するとはとうてい思えない。

この映画のなか、日本の67都市の破壊状況が具体的なパーセンテージで示される場面などは、やはり見ていて日本人として複雑だ。

「父と『蟻の兵隊』」で紹介したが、ルメイやマクナマラの「敵側」であった私の祖父母はじめ先祖の街はこのとき、ほとんどすべて完膚なきまでに焼き払われた。戦前の我が家の写真が数葉残っているだけだ。
あの空爆で日本の主要都市は灰燼に帰した。私たちは、先祖との文化的な継続に、深い断絶を刻み込まれたのだと思う。むろん、勝ち目のない戦争に踏み込んだ日本の指導者の愚劣さは言うまでもない。

同じことは、ベトナム戦争での破壊についても言える。むしろ科学技術が進んだ分だけ、もっと無慈悲な殺戮と破壊が敢行されたと言える。
マクナマラ自身が直接命じたのではないらしいが、「枯葉剤」は自分が国防長官のときであったことを率直に認めた。
しかし、同時に「当時、戦争自体にルールがなかった」という。つまり違法ではなかったという主張なのだが、何か大事なことがすっぽり抜け落ちているようにも感じた。

彼はありのままの事実を素直に述べているに過ぎないけれど、深刻な被害に今も苦しむ人々には受け入れられないだろう。

1964年ベトナム戦争本格介入の原因

ケネディからジョンソンへの移行過程で、アメリカのベトナム政策に大きな路線転換があったことがよくわかった。

マクナマラは、両大統領に国防長官として都合7年仕えた。

今日ではなかなかその実感を追体験することが難しいが、冷戦時代、米ソ両超大国が人類を何回も滅ぼすに足るだけの核武装をして睨み合っていた。「恐怖の均衡」などと呼ばれていたが、いつ人類の絶滅戦争に発展するかもしれないという、息詰まるような緊張感が両国の指導部にはあったことだろう。
マクナマラによると、任期中に核戦争への危機が3回もあったという。

アメリカの核の傘の下で、米軍の補完軍事力を整備すればよかっただけの日本。グローバルな安全保障に対する責任感は育ちにくかったかもしれない。
われわれが育った戦後日本の平和といっても、冷静な視点からの現実的な再検討も必要ではないだろうかと思えた。米国の力はケネディ時代と比べて格段に落ちた。世界を指導する余力はない。日本を取り巻く安全保障も甘くない。しかも政治家の「質」が著しく「劣化」した。

ところで、大統領に就任したケネディは、閣僚全員にバーバラ・タックマンの「8月の砲声」を読むように指示したという。

誰もが望まなかった第一次世界大戦。
サラエボ事件をきっかけに、ドミノ倒しのように連鎖的に戦争が拡大してしまった顛末を的確に描き、ピューリッツアー賞を獲得していた。
ケネディは自分の政権ではこうした事態を招きたくはないものだ、と述べていたという。
逆に言うと、強い懸念があったということだろう。やはり、戦争の惨禍を経験したリアリティーが歯止めになっていたのだと思う。
憲法の平和主義を貶める、昨今の日本の政治家(屋)の乱暴で無責任な発言は、戦争の惨禍に余りにも無知だからだと思う。想像力の貧困さも目に余る。あるいは、自分だけは安全地帯にいられるとでも錯覚しているのだろうか。
案外、たんに「お勉強不足」か軽薄だけなのかもしれない。

63年10月ケネディはマクナマラの提案を受け入れ、ベトナムにいた16000人の軍事顧問を65年末までに撤退すると発表した。それはアメリカが「ベトナム人の戦争から手を引く」ことを意図していたという。
ところが、その直後に南ベトナム大統領ゴ・ジン・ジエムが暗殺され、南ベトナムは一気に政情不安定に陥った。果たして撤退方針が正しかったかどうかが議論にさらされた。このときのケネディの慌て振りをマクナマラは克明に証言している。

更にその直後、今度はケネディ自身が暗殺されてしまったため、対ベトナム政策は中途半端なままジョンソンに引き継がれてしまった。
今にして思えば、この63年末から64年にかけてが大きな歴史の分かれ目だったといえる。

ジョンソンの就任
ジョンソンの就任

ジョンソン大統領は、翌年はじめには政権としての方針転換をマクナマラに指示。その際、ジョンソンは、もともと「早期撤退には反対であった」ことをマクナマラに告白している。
ジョンソンが目論んだ関与は、アメリカの戦争の拡大でもなく、また北ベトナムとの宥和の推進でもなかった。第一義的には南ベトナムを北ベトナムやベトコンとの戦いに勝てる軍事国家に育てることが目的だったと思われる。ジョンソン自身も「ドミノ理論」の虜だったわけだ。こうして政策は後退した。

しかし、マクマナラも言うように、それを今の時点の「後知恵」から、ジョンソン一人に責任を押し付けても仕方ないことかもしれない。大統領も議会もマスコミも、そして一般のアメリカ人も、皆が冷戦思考の枠組みでしかベトナムでの事態を理解していなかったからだ。
むしろ北ベトナムの背後にある(と思われていた)ソ連や中国との全面対決を、なんとか回避しようと苦心惨憺した。軍部やタカ派の無責任な主張や要求に対しては、常に抑制的だったようだ。

思えば、「軍」という存在が本来持つ、ある種硬直した性向を、コントロールする合理的な政治力が昭和初期の日本は弱かったのだろう。そして不合理な狂気が冷静な判断力を駆逐した結果が、あの国策上の大失敗に繋がったのだろう。戦争を煽ったジャーナリズムも同罪だった。

ほんものの武士というのは、滅多やたらに刀を振り回さないのだと聞いたことがある。山本五十六も「百年兵を養うは、ただ平和を守るためである。」と述べていたと、どこかで聞いた。軽々に刀を振り回さないのが国防の「極意」なのだと。

いずれにせよ、このケネディからジョンソンへの路線転換は、その後に取り返しのつかない禍根を招くこととなる。
やがてトンキン湾事件、北爆、地上軍派遣へとなし崩し的に拡大する中で、ベトナム政策の失態に苦しんだマクナマラは、次第に大統領と意見が対立し68年11月、事実上の解任に至った。

それゆえ、85歳になって振り返ったとき、マクナマラは、もしケネディが生きていればベトナム戦争は違った展開になっただろうと述べる。泥沼のベトナム戦争の責任はジョンソンにある、と躊躇なく結論づけた。
国防長官の任にあった自分自身の責任についても否定できないものの、アメリカの大統領制にあっては、最終的な政治責任は「国民に選ばれた大統領にある」と明言した。国防長官は大統領に仕えるスタッフなのであって、議員内閣制のような「連帯責任制」とは違うらしい。

個人的な「私怨」の影は全くない。むしろ、退任の時には素直にジョンソンへの温情に感謝を述べているし、来し方を振り返って万感胸に迫り言葉を失い、嗚咽している。国防長官としての挫折感だろう。

ジョンソンとマクマナラ
ジョンソンとマクマナラ

マクナマラのそれまでの人生の軌跡からしても、スタッフ職で実力を発揮してきたことのほうが多かったし、自分の能力を持って大統領の政策遂行に奉仕することを使命と心得ていたのだろう。
選挙によって選ばれた大統領と、大統領によって選ばれた閣僚の役割には決定的な違いがある。責任の取り方も違う。大統領制のルール感がよくわかる。

だから、最後の方でインタビュアーから「なぜ辞任後に反戦を叫ばなかったのか」などという、やや軽率な質問には応えていない。ケネディ、ジョンソンに仕えたマクマナラの処世態度からして、応えようもないだろう。

「そういう質問が一番困る」
「話しても話さなくても批判を受けるだけだ」
まともな人間は「八方美人」を演じるわけにはいかないと思う。
いくら優れた人でも「運命」には抗しきれない。我々はやはり「時代の子」であって、その「制約」のなかで生きているのだから。
旧約聖書の「ヨブ記」を挙げたマクナマラの人生観が滲む。

この映画の11の教訓は、マクナマラの政治生活の集大成だったのだろう。メッセージの中核はただひとつ━━━21世紀に、大量死を招くような戦争を起こさせたくない、という悲願だった。

「戦争がなくなると信じられるほど、私は単純な人間ではない」

ただし付け加えておかねばならないと思うのは、ジョンソン政権のプラスの面。「公民権法」「投票権法」など画期的なリベラル法案を実現したことは正当に評価されても良いだろう。

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