マクナマラ回顧録   ベトナム戦争の悲劇と教訓

いかにも意欲的なやり手のビジネスマン、といった風貌。

ロバート・マクナマラは、ケネディ政権からジョンソン政権に至る1961年から68年までの間、米国第8代国防長官の任にあった。子供の頃、その名をよく耳にした米国高官。

日本では64年(昭和39年)の東京オリンピックを挟む昭和36年から43年。高度経済成長の真っ盛りだった。
本書は、同氏の回顧録で、1997年共同通信社刊。

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人生最初の記憶は2歳の頃。
1919年、第一次世界大戦の勝利に沸くサンフランシスコ。
世間は、ウッドロー・ウイルン大統領(当時)の「すべての戦争を終わらせる戦争に勝った」という宣言に沸いていた。

しかし、
「・・・・・いうまでもありませんが、誰もがまちがっていました。20世紀は人類史上でずば抜けて血なまぐさい世紀になる道を踏み出していたのです・・・・」(同20ページ)

この印象深い書き出しで始まる回顧録は、苦渋に満ちたベトナム戦争の記憶を、政権中枢の立場から正直に描き出している。

マクナマラは1916年(大正5年)サンフランシスコ生まれ。両親は庶民の出身だったようだ。
「自分のお金でまかなえる、唯一の一流大学カリフォルニア大学バークレー校」(同22ページ)で経済学を学んだ。
富裕層の出身ではない。刻苦勉励の人、といって良いのではないだろうか。

大戦後、経営不振のフォード社でずば抜けた経営管理の実績をあげ、オーナーファミリー以外で初の社長に就任。しかし、そのわずか5週間後、ケネディ次期大統領からの直の懇請を受けて入閣した。

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社長時代の年俸は当時40万ドルを越えていたが、国務長官は2万5000ドルだったという。それでも、ジョン・F・ケネディの意気に感じて、まったく未経験の政界に飛び込んだ。
知的な魅力に溢れる若い大統領に仕え、国家に奉仕することに誇りを感じたからだろう。当時、アメリカは史上空前の繁栄を謳歌した世界大国だった。確かに、これ以上にやりがいのある仕事はめったにないと思える。

「国防総省の目的は、私には最初からはっきりしていました。最小限のリスクと最小限のコストでアメリカ国家を防衛し、軍事行動に出るときは最小限の人命の損失ですませることです」(同書46ページ)
いかにも合理的な経営感覚で就任した文民長官は、就任当時、自信満々の44歳。ケネディ大統領は43歳。実弟で司法長官のR・ケネディにいたっては、わずか35歳の若さだった。
全盛時代のアメリカを象徴するような、夢と未来性に溢れた、働き盛りの若い政権だった。

マクナマラ回顧録 共同通信社刊
マクナマラ回顧録 共同通信社刊

しかし、就任わずか90日、キューバのピッグス湾への侵攻作戦で手痛い躓きを起こした。冷戦期の国際政治は、それまでの順風満帆の人生とは打って変わり、激浪に揉まれるヨットのように困難な航海だった。

ベルリン封鎖(48年)、キューバ・核ミサイル危機(62年)、インドシナ内戦(1946年 – 1954年)、中東危機、そして政権を翻弄する泥沼のベトナム戦争。

外政だけではない。内政でも公民権問題はじめ多事多難な対応に追われる毎日。

「われわれの失敗の原因の一部は、アメリカが単にベトナムだけでなく、それ以外にもはるかに多くの地域に関与していたことの結果だった・・・・ベトナムでの危機は各人が抱える皿の上の数多い問題のなかの単なる一つになったのでした・・・・われわれは、多すぎるほどの荷物を背負い、道が一本しかない地図を持って途方に暮れていたのです・・・」(同154-155ページ)
と正直に告白している。実感がこもっていると思う。

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詳細は本書に譲るとして、我々が生きた20世紀後半の、辛苦に満ちた世界史の歩みを、ワシントン政府の責任ある立場の政治家を通して追体験させられる、とても重い内容だ。

本書は前に紹介した 「果てしなき論争」とともに読まれることで、著者の考えかたがより深く理解できると思う。

マクラマナはベトナム戦争の教訓を、11項目に要約して後世に残した。
人類がこれ以上の惨禍を繰り返さないためだという。
事実と経験を踏まえた著者の率直な回顧に感心した。

都合の悪いことはひた隠して、姑息な嘘で保身に汲々としている昨今の「政治屋」とは違って、正々堂々たるフェア・プレイだと思う。変な感心の仕方かもしれないが、アメリカにはまだ「良心」が残っていたのだろうと思った。
それに比べて21世紀前半のアメリカが「末期的」にすら見える。

さらに我がニッポン。劣悪な政治家(屋)の多いことには眼を覆いたくなる。それを国民が税金で養っているという現実は、さながらあの鳥獣戯画図を思い浮かばせる。
常識のある人間は嫌気が差して政治に関心を失う。すると、ますます投票率が下がり、チンピラや扇動家まがいの政治屋が跳梁跋扈する。ほとんど「衆愚政治」の様相に近いとさえ思うこともある。ただし諦めないでいきたいと思う。
結局、私も含め有権者がもっとしっかり判断しなくてはいけないと思う。制度の問題というよりは文化水準の課題ではないだろうか。

「・・・・冷戦後の世界は、過去の世界とあまりにもちがうため、ベトナムの教訓は21世紀には、あてはまらない、とか、無意味である、と言われること・・・・私は賛成できません。・・・・もしわれわれがベトナムでの経験から学ぶとすれば、まずわれわれの犯した失敗を正確に示さねばなりません。・・・・」(429ページ)

「・・・・誰もが人間です。だからあやまちを免れません。この格言がベトナムに関して私と、私の世代のアメリカの指導者たちにもあてはまることを、苦しいほどの率直さと重い心をもって、私も認めるものです。われわれは正しいことをしようとつとめたのですが、----そして正しいことをしていると信じたのですがーーーーわれわれがまちがっていたことを後知恵が証明している、と私は判断しています・・・・(444ページ)」

晩年のマクナマラ
晩年のマクナマラ

「・・・・人は誰でも見果てぬ夢と、満たされない目標をもって生きています。・・・・21世紀が、平穏無事の世紀にはならないとしても、20世紀同様1億6000万人が戦争で死ぬのを目撃する必要はない、と信じる理由をわれわれは持っているのではないでしょうか・・・・人間として、これ以下の目標にしか努力しないのであれば、われわれの心は平静でいられるでしょうか?・・・・・」「446-447ページ」

冷戦後の世界の世界政治を考えるためにも、必読の記録だと強く痛感させられた。

ジョンソン大統領との意見の違いから、やむなく辞任した(67年12月)後も、戦争は更に5年も続き、この間にアメリカ軍の戦死者は激増する。辞任当時は25000人だった米軍の死者は、最終的には58000人にものぼった。(同525ページ)
一方、戦場のベトナムでは無慮340万人もの死者が出た。民族として、取り返しのつかない惨禍だった。
今日、経済成長の道を歩むベトナムの映像を見て、ふと複雑な感慨が湧く。

ともかく犠牲者数の規模が大きすぎて、その圧倒的な事実に実感が追いつかない。何も知らない「戦後世代」が、かの地でのびやかに生きている映像を複雑な思いで眺める世代に私は含まれると思う。
当時はさぞかし言語に絶する恐怖と痛みを蒙ったことだろう。襲った米軍爆撃部隊は沖縄からも出撃していたのだ。

枯れ葉剤
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一読して、感想は尽きないけれど、この惨憺たる歴史的敗北の責任を正々堂々と受け止めようとする誠実な姿勢は、それ相応に評価されても良いのではないかと思う。
これに比べると、今ではその発言に誰しもが不安を抱くような人物がホワイトハウスに鎮座してしまっている。そのあまりに大きな落差の原因がよくわからない。
全編にわたり痛切な自己批判が続くが、もちろん、著者が認めているように、政治責任は「それで免罪されるわけではない」。ただ決して自己正当化のための弁解ではない。その潔さはいわば「サムライ精神」に通じるだろう。昭和の戦争を起こした同世代の日本人には少ないように思う。
ここぞとばかり時局に便乗するか、「寄らば大樹の影」で付和雷同しただけの徒輩が多かったからではないだろうかと思う。

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この戦争は「マクナマラの戦争」などと酷評されることもあるそうだが、実は当時、マスコミを含めてアメリカでは戦争支持者のほうが多数派であったという事実にも驚いた。
素人談義になるが、なるべく正確な歴史事実を前提に、その時点での人の振る舞いを精一杯「想像」しないと過去は正しく学べないと思う。

マクナマラひとりだけが「責」を負うのものでもないようなのだ。
米軍のベトナム撤退を支持する世論はなんと、67年末で10%,69年6月ですら29%でしかなかった。それほど冷戦型思考が優勢だった。(522ページ訳者あとがき)そこを踏まえて再考しておかないで、今の基準からありきたりの批判をしても余り意味がない。

当初のアメリカでは「戦争の正当性」を信ずる人が多かったのが事実。そこには二度にわたる「世界大戦」での成功体験・・・・・実は巧妙な情報操作の効果もあったのではないかと私は疑う・・・・が災いしたのだろうか。アメリカが負けるはずはないという根拠のない刷り込みもあったのだろう。
「国家の威信」などという美辞麗句を政治家が口にするときは、根本的に疑って良い。

「果てしなき論争」で詳細に述べているように、ワシントンは北ベトナムの意図を一貫して読み間違っていた。圧倒的な軍事力への驕りや、インドシナ半島が共産化するのではないかというドミノ理論の浸透もあった。こうして取り返しのつかない惨劇を招いたのだった。「直接対話」のチャンネルを欠いていたことが決定的な落ち度だったようだ。

割り切れないのは、この回顧録に対してもっとも容赦のない悪態をついた社説はニューヨーク・タイムズ紙だという。(同書463ページ 95年4月12日社説)
64年8月、ジョンソン大統領にベトナム軍事介入の白紙委任状を与えることになったとされる「トンキン湾決議」のとき、直後のニューヨーク・タイムズ紙など社説で全面的に軍事介入政策を支持していたというのだから。
こんなことでは、この戦争の敗北について米国マスコミも決して免責されないのではないだろうか。

「大東亜戦争」当時の「大本営発表」を鵜呑みにして国民を戦争に煽り、時局の尻馬に乗っただけの日本のマスコミばかりを非難できない。
皮肉を言えば、誤った国策のお先棒を担ぐ伝統は日本のマスコミだけの「専売特許」ではないようだ。
むしろ気がかりなのは、その体質が今も根本において変わってはいないかもしれないという懸念のほうだ。むしろ欺瞞の手法がいっそう「洗練」されたのではないだろうか。
いま、書店の店頭にはもっとたちの悪い「デマ本」「トンデモ本」まがいが賑わしい。売れるかどうかが出版意図だからだろう。出版不況に追い詰められた業界の「末期症状」だろうか。

ベトナム戦争

ところで、71年に公になった「ペンタゴン・ペーパーズ」はマクナマラがベトナム戦争の誤りを後世に残すために、67年6月頃から側近に依頼して、密かに当時の記録を漏洩させたのだという。

ニューヨーク・タイムズ紙にリークされ、大々的に報道されたときも、マクナマラはむしろそれをサポートすらしていたらしい。
このとき、すでにマクナマラは政権中枢にあって、戦争の失敗を認めていたことになる。これが真相だったようだ。(訳者あとがき 523ページ)

もうひとつ、驚いたのは、ベトナム戦争に対するCBSテレビのウオルター・クロンカイトの大統領単独インタビュー。(同93ページ)

ケネディ大統領は当時、こう応えていた。

「・・・・つまるところ、これは彼ら(ベトナム人)の戦争なんだよ。勝つも負けるも彼ら次第だ。・・・・われわれにできることといったら、彼らを助けることだけだ。」

マクナマラは回顧録で言う。
「もしもケネディが生きていたら・・・・アメリカをベトナムから撤収させた確率は非常に高いと私は考えます・・・・」
「今更、後の祭りだ」「老いの繰言」と非難する向きもあろうが、私はこれも重大な歴史証言だと思った。
事実を冷静に見極め、撤退するにも「勇気」が要る。大抵のところ、「主戦派」というのは無責任な感情を吠えているだけの場合が多い。

「マクナマラの回想の結果として、ベトナムへの本格的な軍事介入の責任の所在が、ケネディ大統領ではなく、後任のジョンソン大統領にある、との見解がほぼ定着する可能性が出てきたことです・・・」(訳者後書き 同527ページ)
しかし、周知の通りケネディは直後に暗殺され、ここをターニングポイントとして、アメリカの歴史は確実に暗転した。よく言われるように「軍産複合」の思惑通りにコトが動いた結果のように見える。

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ケネディ大統領とマクナマラ国防長官

名作映画「タクシードライバー」の背景には、ベトナム戦争後遺症に歪む青年の闇が色濃く反映されているのだろう。社会は深く荒んだ。

いずれにせよ、アメリカではベトナム戦争をめぐる評価はいまだ激しい議論になっていて、深刻な分裂状況にあるらしい。建国以来の大敗を喫した戦争当事者もまだ存命していて、冷静な議論にはなりにくいのだろう。

日本が起こした戦争(名称さえ「太平洋戦争」「大東亜戦争」「15年戦争」と、確定していないように見える)の評価も、日本人の間でいまだに定まっているとは言えない。むしろ、「誤り」を認めたくないという幼稚な感情論が高まっているようにすら見える。

そして、マクナマラはこう結論する。

「要約するとわれわれは、国家間の関係が法の支配に基づき、国の安全が集団安全保障システムに支えられる世界を創り出すように努力すべきです。こうした諸目的を達成するのに必要な紛争防止、紛争解決、それに平和維持の機能は、多角的機関(複数)や、再編成され強化された国連が、新設の、および拡大された地域機構と手を携えて果たすことになるでしょう。
冷戦後の世界の、これが私のビジョンです。」(同437ページ)

そして、その過程で注目したいのは、
「日本は、世界の舞台で次第に拡がる役割を担うべく運命づけられています。同国は、一段と伸びてゆく経済と政治の力を行使しつつあり、経済と政治の分野で、もっと大きな責任を担うよう期待されています。」(同433ページ)
との観測である。
敗戦から復興して経済力をつけた日本が、世界平和に貢献して欲しいという期待があったのだろう。しかし、その期待に応えられるような政治家が登場しないうちに国力も衰退し、日本の存在感は確実に低下した。

むしろ、視野の狭い感情論に閉じこもる傾向ばかりが目に付くようになったと思う。

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