高橋和巳「邪宗門」(10)学生運動の支持

創作上の新興宗教「ひのもと救霊会」が、大正末から昭和初期にかけて信者100万を呼号し、隆盛を迎えた経過について、小説「邪宗門」はこう記している。

「・・・・ひのもと救霊会が隆盛にむかう契機は、開祖まさと教主仁二郎との運命的な出会いから生まれた。もし全く異質な二つの人格が出会い、協力するということがなければ、教団は・・・・・開祖の老衰とともに滅びていただろう。・・・・」
これは、衰退著しかった本願寺が組織家・蓮如を得て発展した発展経過にも似ている。
キリスト教も、ペテロやパウロの登場で組織として大きくなったのだろうと思う。
教団が組織的に発展するプロセスには、宗教的な原点を体現する教(開)祖的な人とは別に、優れたオルガナイザーの貢献が必要なのかもしれない。

サンピエトロ大聖堂
サンピエトロ大聖堂

開祖まさと行徳仁二郎の関係も、こうした役割分担があてはまると作者は考えたのだろう。
外形的には、大本教の開祖出口なおと王仁三郎をモデルにしたらしい。

だから仁二郎という人物については、宗教家としてはやや胡散臭いイメージをもたせた。

「・・・・でなければ、孤独な一匹狼として、誇大な夢想をしては失敗ばかり繰り返し、やがて憤怒と憎悪をまきちらす政治ゴロか大陸浪人にでもなっていたことだろう。荒削りなロマンチシズムと自己放棄的なニヒリズムが、教主の人格にはたしかに混在していた。・・・・」
としている。

新しい宗教集団が現実社会の中で教団として組織化される過程で、どうしても避けられない「世俗性」を担うには、仁二郎のような清濁あわせもつ、訳知り顔のオルガナイザーが必要だと作者は考えたのだろう。10年の「放浪生活」という素姓にやや不明なところがあるが、それを逆手に取り、敢えて自己韜晦を演出する巧緻を仁二郎は備えていた。素朴な宗教心には、謎めいた要素がかえって「神話」を生む効果があることを熟知しているからだ。民衆は神話や因縁話、呪術を好む。

そのうえ、信徒との間でも、しばしば平気で猥談を連発する親しみやすさ。
「詐欺的」とまではいわないが、敢えて磊落さを演出する抜け目なさを備えている。それは世知辛い荒波を掻い潜って身に着けた、ひとつの偽装なのだろう。
つまり、信心だけではなくて、くだけた世俗的魅力も演出できる。合理的な算盤勘定ができる、事業家の素質をも備えている。

様々な来歴や資質を持った人材を、その能力において正確に洞察して適材適所に生かし、教団組織を構造的に発展させるためには、仁二郎のこうした「才能」が必要だったのだ。

いわゆる「新興宗教」のオルガナイザー観を、作者は描いてみせたのだろう。
それは大方のインテリが新興宗教に持つステレオタイプなイメージでもある。だからマスコミもそうした先入観で「新興宗教教祖」を描く傾向が強い。要するに「詐欺まがい」というイメージをあてはめたがる。信者を非科学的な迷信に騙されているとして見下しているのだ。

 その結果、教団は国体を脅かす不届きな淫し邪教と咎められ、教団本部の豪壮な神殿はダイナマイトで破壊され、幹部が一斉検挙、投獄された。世間はここぞとばかり権力の尻馬に乗って、薄っぺらな「常識論」をかざして騒ぎ立てた。競合する他宗派も、新参者に信者を奪われた怨みから拍手喝采。ために信者とその子弟は社会から差別され過酷な苛めにあった。それでなくても、草創の篤信者には被差別部落など、社会的な弱者が多かった。
この島国自体が異質な存在を生理的に排除する、閉鎖的な「ムラ社会」だから「出る杭は打たれ」る。
そして事態は公判にもたらされた。その目的は弾圧を合法化するためだった。

被告人となった教主仁二郎と「ひのもと新聞」編集主幹の中村鉄男の法廷陳述を読み比べると、インテリの宗教観がよく浮き彫りにされている。そしてこの小説がなぜあれほど学生運動家に強く支持されたか、その秘訣のひとつがここにあると思う。

仁二郎はすでに権力に屈して開祖の「お筆書き」のうち、国体に抵触すると思われる箇所の削除を認め、事実上の「転向」をおかしていた。戦時下の新興宗教も同じような憂き目にあったのだろう。

仁二郎の陳述にはある種、自暴自棄の響きがある。
「・・・・しかもこのたびの罪状の重点であります不敬罪容疑も、すでにこの世になき開祖のお筆書にかかわるものが中心であり、私が加えました解説もまた不敬罪にふれるものと検事は見なされますが、死者の言説おそびその解説が不敬にわたるものならば・・・・」
まず、「お筆書き」に不敬罪にあたる不遜な記述があると非難するなら、その程度の先例は他にもあったと例証し居直る。
いかにも説教師らしくあれこれと反論を挙げつのり、その長広舌のなかに「罠」を潜ませた。やがて明治天皇の歌を引用したのだ。
これに苛立った検事が、そうとは知らずに仁二郎のトリックにはまった。

「・・・・我々はそんなくだらぬ和歌の講義など聞こうとしているのではない・・・・」と、思わず条件反応してしまった。
説教師活動の現場で鍛えた腕をここぞとばかり発揮する、好機到来。
「・・・・私を不敬罪のかどで告発している検事こそ、不敬罪人であることを、この法廷において告発いたします・・・・和歌は明治天皇の御製であります・・・・・」
という具合で、早勝ち問答よろしく法廷を混乱させた。

「・・・・検事はうろたえ、法廷はざわめいた・・・・行徳仁二郎は法廷の混乱に乗じて、後ろの傍聴人席の信徒たちを振りかえり、にやっと笑った」
と、いかにも泥臭い大衆運動のなかで叩き上げてきた面目躍如といった風情。
ここは大いに拍手喝采したいところだ。

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明治憲法の制定。臣下にお下げ渡すイメージがよくあらあわれている。所詮は「押し付け」憲法なのだ。

 

しかし時に利あらず、時代は現在の日本国憲法のように「信教の自由」を、国民のまっとうな権利として認めてはいない強権国家体制だった。つまり、仁二郎の勇気ある法廷闘争も、始めから「有罪」と決まった出来レースだったのだ。

「欠陥憲法」のわりに名称だけは大げさな「大日本帝国憲法」体制のもと、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定され、裁判官が冒頭で
「・・・・裁判はいうまでもなく、天皇の名において法律により裁判所がそれを行なうものである・・・・」
と尊大に宣言するような、偽物法廷だった。

今日の常識感覚から過去を裁断してみても始まらないが、「臣民ノ義務」が「信教の自由」に優先したのだから、詰まる所、日本の「明治体制」はハナから「人権」など認めていなかった。
大正世代の父や叔父が生前、何回も語ったように、愚劣な戦争を起こして壊滅した「帝国日本」をそのまま賛美する気にはとてもなれない。

 そして、こうした日本近代の奇怪な「国体」観念の重大な矛盾点について「ひのもと新聞」編集主幹の中村鉄男は、まるで大学の社会学講義のような陳述を披露している。
読者を意識した、作者の「営業感覚」が透けて見える。

「・・・・社会は常に人間が生きていくための基礎をなす部分と、人間が人間らしい生活をいとなむ精神的秩序との、斉合的な相関によって成立し安定する。いわゆる下部構造と上部構造というのがそれであります。神学・哲学・政治などの上部構造は、経済とりわけ生産関係のありかたに支えられており、生産手段や生産関係のありかたが、常に上部の構造を基本的に規定する。・・・・・・これはおそらく、哲学にも道徳にも政治理念にも、一神教たるキリスト教理念が君臨しましたヨーロッパ社会においては正しいことでありましょう。私も最初、書物の上で社会学を研究しておりました際には、そう考えておりました。
しかし、理論的研鑽の後に・・・・・実地に日本の農村や漁村にはいり、その家族・村落などの共同体の構造やその理念を追究する過程で、私は意外なことに気づいたのであります。
それは、・・・・・基礎的な生産および、その生産のための共同体形成と、人間の上部構造のうちもっとも上位に位する宗教とが、この日本においてはぴったりと癒着している。換言すれば・・・・・下部―上部の連関は、積木細工のように上下に重なっているのではなくて、回帰的な円環構造をとっていると認めざるをえないということでありました。上から下へと還元していってみても、下から上へと抽象していっても、・・・・・結局、同じ場所へもどってきてしまうのであります。
ヨーロッパ的観念から言えば、天皇制というものが、この日本社会の上部構造の最先端にあると目されるものなのでありますが、残念ながらそれはローマ教皇の地位と権威には相当せず、天皇制を支える神道理念は、先端まで行ったところで、ふわっと、農村の自然崇拝とその日々の感情生活へと解体されるのであります。」

この部分は、学生時代に読んだ私にもおぼろげながら記憶があった。そして、なんとなく日本の天皇制がヨーロッパの「神権政治」や「絶対王政」とは質的に違うのだな、という印象だけは残ったように思う。

改めて今回読んでみて、その分析は色あせていないと思う。

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日本国憲法発布

 

中村鉄男は、自らのインテリとしての態度決定に至る過程を以下のように陳述する。

「・・・・そのことに気づいた時、私には二つの道がありました。あくまで学究の徒として、歴史的に不等質に進化する各地域の文化の特質、つまりは日本的特殊構造をより精緻に究明することであり、今ひとつは、単に解釈する学問してではなく、この現世を改変する学問の立場から、その奇妙な日本社会の性質を、改変のための条件として認め、そこから行動をはじめるということであります。私は長い逡巡の末に、後者を選びました。上部構造の頂点と、下部構造の底辺とが癒着している、その癒着部分に身を置き、知識人の思念と、民衆とりわけ農民の活力を総動員してゆさゆさと身をゆすれば、もしうまくいけば一挙に理想社会へと踏みこみうるかもしれない。それが私の基本的な志向であり姿勢でありました・・・・・」

つまり中村もまた「世直し」「世の立替」に期待し、「ひのもと」に参加したというのだ。

しかし、私には大きな違和感を禁じえない。
それは中村が「ひのもと救霊会」の宗旨内容をまったく不問にしているからだ。学者でありながら、なぜこんな軽率な行動ができるのだろう。

確かに、その思い切った行動にはそれなりにインテリとしての良心が働いたのかもしれない。だがそれがなぜ一足飛びに宗教団体「ひのもと救霊会」に直結するのか、論理的合理性を欠いていると言わざるをえない。信仰そのものの吟味を欠いているからだ。

中村と仁二郎との違いについて、作者は
「・・・・図体の大きな子供が二人、睨めっこするように、二人は目を見あわせている。・・・・・一介の庶民として、ただ生得の実質と闘志で教団を成長させた宗教人と、秀才コースを歩み大学の教壇にも立っていた合理精神の、それが微妙な反撥と触れあいの姿であった。」
と記す。

 この社会学者は信者ではないし、そもそも「ひのもと」への信仰自体もないのだろう。当然ながら、宗旨の原点にある開祖まさの「神がかり」と社会学が両立するとは考えていないだろう。そうでありながら、教主仁二郎のリクルートを承諾して「ひのもと新聞」の編集主幹におさまった。
中村は帝国大学教授という虚構のステイタスを捨てるために跳躍しようとして、たまたま目の前にある「ひのもと」に飛び込んだだけなのだ。
しかし、教団が社会貢献のために設立した外郭団体のような部門で、非信者として要職に就くのならまだしも、信仰活動のための「機関紙編集主幹」という職務に相応しいだろうか。

そこに不自然な飛躍があると、作者は考えなかったのだろうか。
所詮は「新興宗教の機関紙」と見下す先入観が、暗黙の前提となってはいないだろうか。
仁二郎は狡猾にも「帝国大学教授」の肩書を利用した。中村も暗黙の裡にその世俗的価値を売ったのだ。

 私が一番疑問に思うのは、そうしたインテリの思想・態度こそが学生運動家たちから痛烈な異議申し立てを受けたはずだった。
このことを指摘した学生が、当時の読者のなかにいただろうか。

それはさておき、更に続く中村の「国体批判」を聞こう。

「・・・・・明治維新の元勲たちがとった処置は、そうした日本民族の上部下部の先端癒着構造をたくみに利用し、しかもそれを行動の情熱・発条とした一つの〈革命〉であったことを私は認めます。
問題は、ひきつづいて第二、第三の革命がなさるべきであったものが、外圧に対抗せねばならぬ至上命令のゆえに、過渡的形態が絶対化され、〈天皇絶対制〉と称されるような、およそ本来の日本の社会構造とは無縁な虚構をたてまえとして押しだすことになり、あらたに勃興しましたブルジョア階級やプロレタリア階級が、あるいはこの虚構をかくれ蓑に利用し、あるいはこの虚構に憤怒することになった点にあります。
〈天皇絶対制〉は外圧にたいする虚構ですから、その虚構を存続させるためには、絶えざる外圧の幻想ないしは緊張が必要であり、日本は現にこの道を進んでおります。
だが、元来の、下部底辺・上部頂点の癒着せる神ながらの道は、戦闘的な要素など殆どもたないものであり、礼儀正しく、清潔を好み、常に微笑して温和な――他の文化圏の人々にも、満州事変のおこるまでは美徳として称揚されていた日本人の性質は、すべて本来の神ながらの道に属するものなのであります。
同時にそれは、流血をともなわぬ第二、第三のための絶好の条件なのであります。ひのもと救霊会の信仰と運動には、国体という型に虚構化される以前の、信仰が同時に労働であり、信仰の改変が直ちに生産関係のありかたの改変につらなる、本来の神ながらの道が存在すると、私は認めます。そして私はそれに期待いたしました。
治安維持法の第一条にいう『国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタルモノ』云々の国体とは過渡的な虚構にすぎず、『私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者』云々の私有財産とは、明治維新の過渡的に漁夫の利を占めて成りあがった強盗的商人どもの富にすぎず、治安維持法はその特権を守るための暴力団的な掟を、全国民に強制したものにすぎないのであります。・・・・」
こう述べたとき、裁判官は中村が法律に抵触する罪状を認めたのかと問う。それに対して
「・・・・・いや、認めません。」
と断固反論した。そして

「なぜなら、真実が仮象に裁かれるなどというおかしな話はありえないからです。・・・・・・私は単なる反抗精神のようなものでこうしているのではなく、自分の境遇が不満で上位の者を指弾しようとしているのでもない。・・・・・私が国家に直属する機関からあえて離脱したのは、国家そのものが今、虚構のものとなり果てているからだ。・・・・・私に良心の存在するかぎり、現在の国家の機関に奉職することはできぬ。・・・・私自身はみずからの学問の帰結として、いやその道程として歩みきたった道は撤回しえません。・・・・・」

作者が、大学教授でありながら学生運動に心情を寄せたという「良心」を滲ませたのだろう。

そして「国家神道」こそは日本本来の伝統にもそぐわない、人工的で過渡的な「虚構」に過ぎないと糾弾しているのだ。その虚構が国家主義の身勝手な侵略戦争を正当化した。更には、その国内的な構えを列島の隅々に貫徹しようとして、国家総動員体制を強制した。

これに対して、日本の伝統的な村落共同体を母体に生まれた「ひのもと救霊会」は、自給自足の農村にあって「信仰が同時に労働であり、信仰の改変が直ちに生産関係のありかたの改変につらなる、本来の神ながらの道が存在する」素朴だが自前の信仰活動だという。
それは明治以来の富国強兵策の犠牲を強いられ、そのうえに冷害の追い討ちで疲弊の際に追いつめられた農民や、昭和恐慌などの不況による失業や貧困と社会不安のなか、切実な苦しみにあえぐ大衆の強い支持を集めて急速に膨張した。
昭和初期の東北農村の悲惨な有り様は、リヒャルト・ゾルゲも指摘していた。

しかし「虚構国家」は、恐るべき暴力装置の本性をむき出して「国体」を脅かす民衆の共同体を徹底的に弾圧した。その存在を原理的に許さないのだと、高橋和巳は主張するのである。

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