ゾルゲの日本研究(6)・・・・「日本の農業問題」

ゾルゲは日本の農業についても詳細なレポートを書いている。日本の現状を把握するために、くまなく各地を旅したようだ。

ドイツ人読者にわかりやすいように、当時のドイツの農村事情やロシア革命期の農村と比較しながら論じた。

ここでゾルゲは、共産主義者としての「正体」を巧みに隠してドイツのブルジョワ雑誌に寄稿文を掲載したのだということを、きちんと考慮に入れておかないと、正確な読み込みにはならないのだろう。

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ゾルゲはコミンテルンが日本共産党に指示したとされる、いわゆる32年テーゼ「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を当然に読んでいただろう。だから、ゾルゲがみずからの正体が暴露されないように慎重な表現を施しながら、日本農業の分析を発表したものだったはずだ。
素人のに専門的な評価などできないが、こうしたゾルゲの内情を織り込みつつ読んでも、やはりこの時代の日本社会の内部矛盾を学ぶには得難い資料ではないかと思った。プロの共産主義者として訓練を受けた分析力が参考になるだけではない。何よりも外国人の素直な視点が生きていると思う。
日本人が謙虚に学ばねばならない指摘が含まれると思う。

ゾルゲは言う
「・・・最後に私は、自分のやった無数の旅行がどのくらい私の東亜研究に役立ったかもしれないことを言わなければならない。・・・かくして、私は日本海沿岸地方の旅行を企てて、新潟からその西方地域を旅行し、また頻繁に奈良と京都を訪れ、紀伊半島を丹念に見て回った。神戸、大阪、瀬戸内海、四国を経て、九州の沿岸を回り、鹿児島へも行った。日曜日には、東京から熱海の西までの間でよくハイキングをやったものである。ハイキングの目的は、各地それぞれの時期における稲作の状況を視察するためであった。視察の結果は、フランクフルター・ツアイツングやゲオポティクに寄稿するときの役に立った。・・・」(ゾルゲの見た日本154ページ  1937年 『地政学雑誌』 )

「・・・・行った先々でその土地のことを知るのは私の希望であり、楽しみであった。・・・・・私はそうした視察を行うことを、単なる目的のための手段とは考えなかった。もし私が平和な社会状態と、平和な政治環境のもとに生きていたとしたら、多分私は学者になっていただろう━━少なくとも諜報員になっていなかったことだけは確かである。・・・・」(同155ページ)
これが検挙後の獄中でのいわば絶筆ともいうべき「手記」であるだけに、もとより革命を志したうえであるとはいえ、その後の悲運が胸に迫ってくる。平和であれば、「少なくとも諜報員になっていなかったことだけは確か」だとの告白は本音だと思われる。

いかなる人も、所与の歴史的社会的条件の中で生きている。その中で、人生の最後を前に自らの人生の意味を納得できたかどうか、自問自答するしかない。無論、私自身も例外ではないと思う。

時代、立場、思想も異なるが、歴史から消滅してしまった旧ソ連から80年以上も前に派遣されたひとりの諜報員の手記を、今どき読むことは、決して無駄ではない。今度は20世紀後半から21世紀前半を生きた自分を再考するための、貴重な先例のひとつになると思った。

ゾルゲはいう。
「・・・日本はその農業の発達可能性に絶望したかのように、テンポを速めて工業化を促進し工業製品の輸出を増大し、国防軍に一層すぐれた工業製品を供給するため、今までよりも激しく総力をふりしぼっている。」(同46ページ)
「とはいうものの、現代の日本ほど土地、稲田、農民、天候、不作が人の意識中に、潜在意識中に、また伝統に、世界観に大きな役割を演じている国はほかにほとんどあるまい。ひとはこの推進力が都市の家庭にいたるまで全生活に及んでいるいるのを繰り返し発見して驚くのである。・・・・・昔も今も、アジア大陸の巨大な土地を日本の意志に服従させているのはほとんどもっぱら軍服を着た農民の子弟である。」(同47ページ)
しかし、その農業の現状について
「全農民の75パーセントは数百年以前と同様の貧しい零細農か、小作人の群れである。はなはだしく『封建的』な経済形態に止まっている日本農業は旧い習慣や人生観を支えている。今なお古い形態の農業と最高の技術的資本主義的交通および経済形態が同時に存在する事実のうちに日本の二面性と二重存在の『秘密』の大きい部分の基礎がある。・・・・だが日本の二重存在は・・・・・多彩で美的な妥協ではあるが、現実的には都市と農村のあいだの一面的な強制関係であって、日本農業、農民はほとんど与えるだけで、決して完全な反対給付を受け取ってはいないのである。」(同49~50ページ)

敗戦後、GHQの民主化政策の中で「農地改革」が大きな柱のひとつであったことに思い至る。ゾルゲの分析を読むと、日本の封建制を解体するためには、必然の処置だったのだろう。
筑紫平野の比較的大きな地主の長女として育った母は、あの戦時中でさえも衣食住に困ったことがなかったのだそうだ。しきりに戦前を懐かしんでいたのが思い出される。しかしそれは「はなはだしく『封建的』な経済形態に止まっている日本農業」の例外的な恩恵であって、しかも「旧い習慣や人生観を支えてい」た旧弊だったというべきだろう。戦前の教育を受けた大正世代の母は戦後の改革について、肯定的な評価をほとんど持っていなかったように思う。
「小作人たちに全部とられちゃってねぇ」

ところが、その零細農民たちの「・・・大多数の農家の非常に困難な状態」(54ページ)が昭和初期の日本社会を追い込んでいったのだ。

大本営陸軍部
「日本は小土地所有の国である。大土地所有は稀である。・・・・小作事情から見ると、日本農業は歴史的には欧州ではすでに今日の近代経済の前段階にすぎない経済形態に編入される。・・・・」(66ページ)

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農村では、子女も身売りが公然化していた

その日本農民の悲惨な状況について
「日本の農民は、・・・・前近代的、あるいは『封建的』経済状態の中で暮らしている。・・・・(同時に)近代国民経済の発展とをつうじて近代経済の真っ只中に立っているのである。しかしこの二重の地位は農民に古い家父長制的経済関係の有利な側面をも確保せず、それかといってまた近代的な経済発展の利益にもあずからせない。日本農民は・・・・・両者の犠牲である。」(79ページ)
農民の大多数はまた「軍人」の供給源だった。

そして農村の深刻な疲弊は、軍部の存在根拠やその狭くて近視眼的な社会意識を尚更に先鋭化させていた。なぜなら、
「日本軍部が演じている独自の役割、すなわち特に陸軍が、農業問題の重大さを認識している・・・・・この問題を実際に取り上げなければならなぬ必要性と、・・・・・(その)可能性を見ている唯一のグループであることは、この国特有のことである。日本将校団の約40パーセントは農村出身者であり、日本兵士の少なくとも90パーセントは農民の子弟である。」

にもかかわらず軍部の無謀な海外膨張主義は
「・・・陸海軍が明らかに必要と認める軍備拡張とともに経済および財政政策と国民エネルギーの結集を要求しているが、これらはいろいろな点で農業の利益に反しているように思われる。すなわち真に遠大な農業改革に必要な極度に巨大な財政を支出する代わりに、国家財政にさらに巨大な負担を課することである。・・・・日本農業の徹底的な解決に努力を集中する代わりに、・・・・外敵に対する戦いに国家のエネルギーを向けようと努めているのは外ならぬ陸軍である。まさに日本で農民の悲惨な現状に最も理解をする部分がこの葛藤に陥っているのである。」(83ページ)
との指摘は、まことに鋭く軍部の自己矛盾を衝いている。

大本営陸軍部発表
大本営陸軍部発表

軍部が農村の疲弊を中国への侵略戦争で解決しようとしたことに、根本的な過ちがあったのだろう。アジアの人々へのまなざしが致命的に欠けた、余りに身勝手な発想だった。
であるとすれば、そもそも軍人が政治を壟断するような状況を招いた戦前の日本には、何か本質的な体制的欠陥があったのではないだろうか。狂犬のような軍部の暴走だけに責任を押し付けて済まされる問題ではないだろう。

終戦の日
敗戦の日の皇居前

自らの出身農村の惨状を眼前に、やむにやまれぬ「憂国の激情」にかられて決然決起したのが青年将校の主観的な心情だったのだろう。同じ時代にいながら、その性急で粗雑な「世直し」に逆上せた軍人や皇道思想家たちを傍目に、冷静で客観的な分析をゾルゲは残していた。もちろん、協力者尾崎秀美の助言もあったのだろう。
残念なことに外国人による客観的で優れた日本研究が、すこしも同時代の日本人には反映されなかった。

ゾルゲを無批判に宣揚するつもりはないが、せめてこうした外国人の「眼」がオープンに議論されるような開かれた社会、思想的な「幅」がこの時代にあったならと思うのは、「ないものねだり」だろうか。当時の日本人にはそんな余裕もなかったように見える。

なぜ日本は、こんなに暗く、愚かな、視野狭窄に陥っていたのだろうか。

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