高橋和巳「邪宗門」(4) 戦中派の無慚

子どもの頃、戦場体験のある大人たちの話のなかで「神も仏もあるものか」という言葉をしばしば聞いたように思う。

いまにして思えば、戦後日本人一般の心持をよく現しているフレーズの一つだと思える。そのニュアンスは、戦中派・高橋和巳の「邪宗門」を読んでいても、さまざまな描写のなかに潜んでいるように思った。

「ひのもと救霊会」の教主の次女・行徳亜貴は里子に出され、教団草創期からの、ある篤信者のもとで育った。
子どもの頃から小児麻痺で足が萎えて、人に背負ってもらわないと登下校できない亜貴は、激しい気性の長女の阿礼とはまったく対照的な、控えめで内向的な女性に育った。身体が弱かったことも、心根のやさしい性格形成に影響したのだろう。

しかしその大教団も当局の過酷な大弾圧を受けて、教主の父や母も含め幹部が多数投獄され、教団は解散を命じられ、壊滅状態に陥っていた。そこから彼女の苦難の青春が始まる。

やがて戦争が始まり、多くの同世代の女性がそうであったように、成年に達した彼女もまた、女子挺身隊の一人として北京都の故郷から、はるばる名古屋の被服工場に勤労動員されて働いていた。運命に従順な彼女は、自らが生い立った教団を暴力的に壊滅せしめた国家の、戦争政策に不審を持つよりはむしろ、「・・・この国の滅びとともに滅びるつもりだった・・・・」。

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廃墟の中で録音放送を聞く

ところが8月15日、日本は戦争に負け彼女が奉仕していた工場も閉鎖となった。そして各自に帰省命令が出た。敗戦直後の混乱のなか、名古屋から北京都に帰る困難な行路の様子を、以下のように描いている。

「・・・・・列車の中は地獄だった。網棚まで人が乗り、混雑で足が宙に浮き身体は斜めに倒れたまま起きなおれないのだ。窓ガラスが割れ、列車が停車するたびに窓から人が乗り込んでくる。男たちは窓から小便をし、女は人群れにうずくまったまま小水を垂れた。列車の切符一枚買うのに従来でもすでに一晩中駅にならび、夜行列車も立ったまま眠らねばならぬこともあった。やむをえず窓から出入りする人もいたが、敗戦まではなお人々は最低の礼儀を守っていた。しかし今は、はや、窓から出入りするのが当然であるという顔つきに変わり、弱い者は押しのけるのが当たり前になってしまっていた。・・・・・」(邪宗門第3部)

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ここで、さりげない表現ながら
「・・・・敗戦まではなお人々は最低の礼儀を守っていた。しかし今は、はや・・・・・弱い者は押しのけるのが当たり前になってしまっていた。・・・・」という描写に「神も仏もあるものか」という敗戦直後の気分がよく現われているように思う。みな、自分が生きることだけで精一杯だったのだ。
大げさに言えば、戦後の日本人の精神の基本的な有り様、その特徴がこの言葉によく表現されているように私には思えた。

私自身は戦後生まれだが、現在にまで続く戦後日本人の精神の底流に漂う「ニヒリズム」とか「物質主義」は、こうした「敗戦体験」に大きく起因しているのではないだろうかと思う。それは無意識裡に、戦後世代にも引き継がれてきているのではないかとさえ思える。
価値観の圧倒的な崩壊のままの空虚感から一歩も進んでいない戦後日本人の精神史は、ある面で少しも「発展していない」と思える。

それはたとえば、教団の長老・貝原七兵衛の息子、陸軍曹長貝原洋一の「物語」にもよく描かれているように思った。

洋一は、国体に抵触する「非国民」ひのもと救霊会の長老の息子と設定され、小説「邪宗門」では以下のように描かれている。

彼の出征に当たって、すでに弾圧下の騒動にあった教団長老の父は、その渦中にあって、教主とともに組織防衛に没頭し、息子の出征に直接立ち会うことが出来なかった。そこである人を介して伝言を託した。それが父子の最後の交信となるのだった。

「・・・・戦場に赴く以上は、人と人が殺し合わねばなるまいが、お前が卑怯な真似をしてもどうなるというわけでもなく、教団に迷惑がかかってもいかん。普通の兵士がするように進み、普通の兵士がするように働いて死んでこい。積もる話はあの世でしよう・・・・。」
この伝言を胸に洋一は出征した。
学徒兵だった父の回顧談でも、当時「出征」とは、ふたたび故国に生きて還らぬ旅立ちだった。博多湾から遠ざかる岸壁を眺めながら「これで日本ともおわかれだ」と心底思ったという。「馬鹿な戦争だった。。。。。。」
この言葉は私も忘れまい。

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しかし、「・・・・平和時の農民の心情にはくわしい父も、戦場の心理には無知だったと言わねばならない。・・・・」

非道な軍隊教育のなかで彼は
「・・・・ラッパと号令、皮革と汗の臭い、飯盒を鳴らしながら早飯を食って、銃をかついで走って、早糞をたれて寝る。・・・・・そしてふと気がついてみると、自分には何も考えることはないことがわかるのだ。・・・・敵に対する感情のありかたには、どんな観念的な戦意高揚の教育も及ばない、そしてどんな宗教的情操もおさええない、<戦場の論理>があった。・・・・・ふいにビシッという空気を鞭打つような音がして、並んでいた戦友が折れくずれた。・・・・見ると、何ヶ月かの間ともに飯盒炊爨をし同じ場所に叉銃し、同じ草むらに休止してきた戦友が死んでいた。そしてその時、彼は今までに感じなかった姿の見えぬ敵への怒りが、めらめらと燃え上がるのを覚えた。畜生、この仇はきっととってやる。その心理は実戦の経験のある者でないとわからない。彼はその戦友の死を契機にして<勇敢>なる兵士となり、白兵戦では、手榴弾を振り上げている便衣隊の支那兵に向かって突進していって藁人形でも突きさすように・突きさす兵士となったのだ。拭っても拭っても、いつまでも消えない血糊を真っ向から浴びながら・・・・。」

「・・・・しかし彼は、父の理解し得なかった、そして教主にも理解できないであろう、戦場の論理に従って何人かの人を殺し、そして莛を垂らしただけの慰安所の長い列に加わり、さらには罪もない支那の農婦を強姦した。」

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これは、わずか8ヶ月だが、実際に学徒兵として嫌々出征した父の、折に触れての懐旧談と重なる。父の場合には、格別な信仰心もなかったが。

「・・・学徒兵は毎日殴られた・・・・」「・・・早飯、早糞は武士の習い・・・」「・・・・醤油を掛けただけの飯を一気に食った・・・・」「・・・どこから八露軍の弾が飛んでくるかわからない・・・」「・・・・気がついたら、さっきまで生きていた戦友が隣で死んでいた・・・・」「・・・・消灯ラッパの侘しかったこと・・・・」

敵味方入り乱れて錯綜する戦場で、行方不明となった貝原洋一は「戦死」とみなされていたが、
「・・・昭和14年冬いらいの蒋介石軍の総反抗にたいする反撃作戦に従軍し、行方不明となった。・・・・十数倍の敵に包囲されて中隊がほとんど全滅した時、辛うじて生きながらえて、・・・・捕らえられて捕虜となったのだ。・・・・」
「・・・・死すとも虜囚のはづかしめをうくる勿れ・・・・隙を見て自殺を試みて失敗、・・・・・重慶近郊の谷間に設営されていた捕虜収容所にはこびこまれた。」

その国民党軍の捕虜収容所から始まる、貝原洋一郎の数奇な運命は典型的な、とても悲惨な捕虜体験だった。

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