高橋和巳「邪宗門」(1)  「戦後」を生きた二人の文士

 高校2年生の頃だったか、ある日、放課後の正門を出た歩道で、緑色のヘルメットをかぶった二人の「活動家」が下校する生徒にビラを配っていた。その「活動家」たちのすぐそばには、中年の見知らぬ男性が二人ほど立って様子をうかがっている。
 その二人の「活動家」はオルグに来た他校の高校生らしく、中年の男性は物腰からして刑事なのだろう。刑事と活動家たちは顔見知りのようだった。活動家たちは、校門を出る生徒にむかってアジ演説したりチラシを配ったり、屈託なさそうに何か話しかけたりしている。
デモ参加への呼びかけだった。
二人の演説の内容は、もう忘れた。

  刑事たちとヘルメット姿の二人の間には、なぜかあまり緊張感は感じられない。むしろ、刑事たちも「子どものやんちゃ」をじっと見守っているような風情にさえ見えた。
それどころか、刑事の「立会い効果」を楽しんでいるかのような「活動家」の軽い振る舞いには、ある種「自己陶酔」の気分が漂っていた。
私はしばらく話を聞いていたが、やがてその場を立ち去った。

 あの頃の同世代の中には、ヘルメット学生の呼びかけに応じてデモに参加した人もいたようだ。
東大安田講堂の攻防戦や、連合赤軍の浅間山荘事件が世間を騒がせた頃だが、私の田舎の高等学校は、それでもまだ比較的「平穏」だったように記憶する。

 数年後、東京の大学の受験当日の朝。

その大学の正門前には、ものものしい装備の機動隊がずらりと並び、ジュラルミンの盾の間を縫って受験会場に入った。左右には新左翼のタテ看板が並んでいた。あの独特なクセのある画一的な字体、硬直的なアジ演説調の言葉の羅列。
自分には何か場違いのような感じがした。

barisutokanban

 味気ない受験勉強をやっと終えて、せっかく入ったものの、キャンパスはなんとなく荒廃したムードだったように思う。
大学紛争はすでに峠を越え、我々の大学時代は次第に「正常化」「体制化」された頃だった。
私の大学では、学生の一般的な態度は「しらけ」を気取ることのように見うけた。危ないものには近寄らない。とくに「運動」。

だから、団塊の世代の先輩たちからは「飽食世代」「陽だまり世代」「ノン・ポリ」「保守派」などと揶揄されたように思う。マルクス・レーニン主義の関連本が古書店に溢れていた。面白かったのは、神田のパチンコ屋の景品ににまで左翼の古書籍が並んでいたことだった。

 その団塊世代の間でさかんに論議された作品のなかに、高橋和巳の小説「邪宗門」や吉本隆明の「共同幻想論」などがあった。今の若者の間ではほとんど口の端にものぼらないようだが、マルクス主義の諸文献とともに、「活動家学生」たちの必読本だったそうだ。私もとりあえす手にとってはみたが、難解で読みきれなかったのだろう、詳細はあまり記憶にないが、ともかく、「希望のない物語」、「悲観的な議論」が多いという印象だけが残っていた。

 最近になって、その小説「邪宗門」をもう一度読み返してみた。
関心のきっかけは、高橋和己と同じ昭和6年生まれの篠田正浩監督の「映画ゾルゲ」を観たことや、昭和3年生まれの手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」を読んだりしたことの延長線上にある。

それにしても、今から思えば、こんなに暗鬱な小説が学生運動家たちの必読本だったのは、まるであの運動の結末を予め暗示していたかのようだ。

著者の高橋和巳自身も、学生運動家たちに寄り添うようにして39歳の若さで亡くなったという。
そこには、「知的に誠実な人」というイメージがあったのだろうか。

高橋和巳
高橋和巳

  ある程度覚悟はしていたが、「邪宗門」を読み進むにしたがって、物語の暗澹たる展開に、こちらの気分も滅入ってくるような思いだった。ともかくも我慢して最後まで読了してみた。そしてその根の暗さはやはり、昭和初期に生まれた戦中世代に共通の時代背景を反映しているのだろうと思った。宗教団体を描きながら「救い」らしいものがないのだ。
 それは、この世代の作家たちは青春時代に未曽有の敗戦と価値観の大逆転をいきなり突き付けられたからだろうと思う。敗戦後の日本にある種の「わだかまり」を抱いたまま「戦後」を生きた。

 このサイトでも紹介したが、ゾルゲがドイツ向けの雑誌に報告していたように、昭和初期の東北地方の農村の悲惨な貧窮が「邪宗門」の主人公━千葉潔の生い立ちに強く投影している。
彼は餓死した母親の遺言に従って、その遺体の一部を食べて生きのびたという、胸の悪くなるような「原罪」を背負った人物に設定されている。

 母親は新興宗教「ひのもと救霊会」の熱心な信者で、その遺言にしたがって千葉少年が遺骨を納めるために、はるばる東北の農村から京都府下にある架空の田舎町「神部」の教団本部にやっとたどり着いた、というところから話が始まる。東北の農村の窮状を、やや無理やり北京都の救霊会本部につなげた。

 「悲惨」の極みを主人公に背負わせて展開する大部の小説は、著者が中国文学の専門家だったからだろうが、難解な漢語が多くて読みにくい。
それでなくても全体のトーンが陰鬱なので、漫画がこれだけ普及した今の若者世代に、広く読まれそうもない。
わずか半世紀で、若者の文化状況も大きく変化したものだと思う。
今は、どちらかというと内容のない軽薄なお笑いや、情緒的なストーリーのほうがポピュラーだろう。深刻な「思想」は流行らない。

 この時代の左翼過激派もいまどき人気のタカ派も、所詮は「流行」に過ぎないのだろうか。季節に合わせて気軽に着替える服装のように。

高橋和巳
高橋和巳

 しかし、いまだに団塊の世代の人々には高橋和巳の「邪宗門」を高く評価する人がいることも事実だ。
高橋自身は篠田監督と同じ年に生まれた人だから、最後の「軍国少年」だったのだろうか。

その作品を熱心に読み込んだ世代は、大学をはじめ大人の作った既存の「体制」をいかがわしいものと決め付け、「ノー」を突きつけて大暴れした世代だった。だからそこには、ことの正否は別として、それ相応に戦後社会の問題点が含まれていたことも事実だと思う。

 私には文学を専門的に評価する力はないが、まずは著者自身の言葉(あとがき)で執筆意図を確認しておこう。

「・・・・発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験してみたいということにあった。表題を『邪宗門』と銘打ったのも、むしろ世人から邪宗と目されるかぎりにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである。 ・・・・ ここに描いたものは、あくまで『さもありなむ、さもあらざりしならむ』虚実皮膜の間の思念であり、事件であり、人間関係である。・・・」

 高橋和巳は大阪市浪速区生まれ、実母は熱心な天理教の信者だったらしい。「邪宗門」を執筆するにあたって天理教、大本教、創価学会など戦前・戦中に弾圧された教団史を綿密に取材したようだ。

小説に登場する架空の神道系新興宗教「ひのもと救霊会」は、外形的には大本教を主たるモデルとしているが、著者によると
「あくまでも、さもありなむ、さもあらざりしならむ、虚実皮膜の間の」思考実験なのだという。

「世直し」を標榜する新興宗教の叛乱は、「反体制」的な傾向をはらむので、教団が膨張する過程で必ず「支配権力」との葛藤に晒される。
 これを徹底して非妥協的に突き進めると、どうなるか。それを高橋和巳の観念の中で展開してみた、ということなのだろう。
 自由奔放な大衆宗教運動の下からの勃興とは対極的に、これを上から管理統制しようとする権力との間には、原理的な対抗関係が発生するということのなのだろう。
断定的に書くとたちまち異論が出てきそうだが、まずは著者に敬意を表して謙虚に読み解きたい。

 特に作品中で、第3代教主の千葉潔の時代に絶望的な武装蜂起を試みたものの、「三日天下」で鎮圧され壊滅した顚末が、あたかも後の「オウム真理教」を予言するような筋書だったので、一時話題にもなった。私は、高橋が中国文学の専門家であったことから、大陸の王朝交代期に登場する農民暴動にヒントを得たのではないだろうかと想像していた。

 また、私自身の記憶に鮮明なのは、高校生のとき、三島由紀夫との対談が創価学会系の月刊雑誌「潮」(69年11月号)に掲載されたことがあって、とても興味深く読んだこと。
当時の私には、どちらかというと豪華絢爛な三島由紀夫の作品のほうに魅力があった。ちょうど「憂国」を読了して日にちもたたないときに、あの「割腹事件」が勃発したので、尚更印象深い。
「こんなこと、本気で考えるような人は、畳の上では死ねないだろうな」
と思っていた頃だったからだ。

 確か「潮」編集長の後日談(あとがきだったか)によると、「屈託なく食事をしながら語る三島に対して、病み上がりなのかジュースしか飲めない体調の高橋だった」という様子だったような記憶がある。
私の印象は、快活な話しぶりの三島に対して、高橋という作家(それまでまったく知らなかった)は奥歯にものの挟まったような暗い口吻で、なにかすねたインテリ風だった。
当時17歳の私は、あまりよくわかっていなかったのだろう。

三島事件
三島事件

 そして、その直後(確か翌年)に三島由紀夫が突然の自決、さらに高橋和巳も結腸癌で死去したのだった。
二人の存在は戦後を対極的に象徴していたのだろうか。共通しているのは、二人とも「70年安保」を前後して死んでしまったことだ。それがひとつの時代の区切りだったのかもしれない。

 これ以降の日本の若者文化には、社会意識や思想性がしだいに退潮して、何か弛緩した「低迷期」に陥ったのかもしれない。そのなかで、二人が命がけで提起した真剣なテーマは、たぶん置き去りのままになったのではないだろうか。

 そうすると、さしずめ私などは、その「低迷期のはしり」にあるのだろうと思う。

“高橋和巳「邪宗門」(1)  「戦後」を生きた二人の文士” への6件の返信

  1. 「それでなくても全体のトーンが陰鬱なので、漫画がこれだけ普及した今の若者世代に広く読まれるようにはなりそうもない。」
    そんなことありませんよ!私は平成生まれの「若者」ですが、社会心理学者の小坂井敏晶さんの本で知りました。これから読み始めるところです。
    この本が、あのヘルメットを被った「活動家学生」たちの必須本だったとは知りませんでした。本に影響を受けるなんて、今と変わらずいかにも若者らしい行動だと思います。ますますこの本に興味が湧いてきました。

    1. これは失礼しました。私の書き方は確かに決めつけ方が少しきつ過ぎるようです。修正させていただきます。

      1. 返信を頂き光栄です。
        修正だなんて、誤解を招くようなことを申し上げてしまったようです。
        私はこの記事を拝読して、現在までに時代があまりに変わってしまったことに哀愁と言いますか、何か寂しげな雰囲気が感じられたんです。
        確かに昭和は遠ざかるばかりではありますが、決して私の世代の、全員でなくとも一部の者は忘れることはないと思うんです。そして私も、その一人でありたいと考えています。
        コメントを差し上げたのは、hiroshiaさんの目には遠ざかっていくように見える若者の中にも、私という人間がいるということに気づいて頂きたかったからなんです。ただ、私自身の未熟さゆえに表現の仕方に拙い部分があり、hiroshiaさんに誤解を与えてしまいました。お詫び申し上げます。決して記事の修正をお願いするつもりではありません。

        1. アントラバー様

          ご安心ください。自分の責任で修正しました。
          やはり一人でパソコンに向かってキーボードをたたいていると、どうしても一人合点に陥りがちだな
          と反省したのです。そのきっかけを頂いたのです。
          今後とも宜しくお願いいたします。

  2. 私は高橋和巳の愛読者です。それがこうじて、「悲の器」を英訳して公開しました。著作権継承者の許諾をいただいております。英訳版に読者が本当にいるのだろうか、とは思いますが、Facebook で紹介しいると、10名くらいの読者はいるようです。高橋和巳の小説ではこれまで、1作も英訳公開されていないので、一つでもできたので、満足しています。「邪宗門」も英訳をどなたかしていただきたいと切に思います。
    http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html

    1. 拙い感想文みたいなブログを読んでいただいて感謝します。
      それにしても、高橋和巳のような難しい日本語作品を英訳される方がいるとは、驚きました。
      私は英語には弱いのですが、じっくり拝見させていただきます。

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