手塚治虫「アドルフに告ぐ」

用事があって久しぶりに宝塚に行ったついでに、手塚治虫記念館に寄ってみた。たしか子供たちを連れて訪れて以来だから、もう20年以上になるだろうか。

戦後70年というので、たまたまマンガ「アドルフに告ぐ」が記念展示されていた。建物の外観はきちんと整備されていて、少しも劣化していないように見える。

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正面外観
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正面・「火の鳥」オブジェ
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正面階段 「ブラック・ジャック」のレリーフ

入場してみると、なんと館内は撮影O.K.という。懐かしさと嬉しさで、さっそくスマホであれこれ撮らせてもらった。

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リボンの騎士
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火の鳥
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天井にもリボンの騎士や鉄腕アトム

「アドルフに告ぐ」は、原画も陳列されていたし、同作品についての手塚のインタビューなども掲示されていて、大いに参考になった。この作品は、1983年1月から1985年5月まで、『週刊文春』(文藝春秋社)に連載された。
私はすでに社会人だったが、連載当時は読んでいない。手塚作品としては、晩年(1989年没)の歴史長編マンガだという。
このジャンルでは他に、手塚の曽祖父が登場する「陽だまりの樹」(幕末維新期の歴史長編漫画)があったと思う。これも力作だった。

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アドルフ・ヒトラー

手塚治虫は昭和3年生まれの、いわゆる「戦中派」で、私の両親のすぐ下の世代(両親は大正末)だ。だから私の父の様に、学徒兵として嫌々出征しなくて済んだが、そのぶん、戦時下の勤労奉仕や空襲とかを体験した。そして手塚自身によれば、その戦争経験がその後の人生に決定的な意味を持っていた。
勤労奉仕で大阪の工場にいたときの経験を、以下の通り語っている。

「・・・・その日、ぼくは工場の監視哨、つまり火の見やぐらの上で、敵機の来るのをずっと見ていたのです。・・・・・ところが、6月の大空襲のときには、・・・・雲の間から突然B29の大編隊が見えた。びっくりしました。警報が鳴ると、防空壕に入れという指令になっているのですが、下に降りる暇がないので、そのまま見守っていました。大編隊は突然、焼夷弾の雨を空中にパッとまいたのです。淀川近辺の民家や工場めがけて大量にばらまいたのです。
・・・・・ぼくは『おれはもういしまいだ!』と思って、監視哨の上で頭をかかえてうずくまりました。すると、ぼくのすぐ横を焼夷弾が落ちていき、ぼくがうずくまっている横の屋根に大穴が開いて、焼夷弾が突き抜けていったのです。下はたちまち火の海です。・・・・
当時は防空演習といって、・・・・バケツリレーをして、火を消す訓練をしていました。ほんとうにばかばかしい訓練です。しかも、そんなものはまったく用をなさない。とにかく瞬間的にあたりは火の海になりました。
・・・・焼夷弾はひじょうに小さな筒ですが、何百メートルも上から落とされますから、その加速度たるやたいへんなもので、防空壕の屋根を突き抜けて落ちてしまいます。そこで爆発するのです。・・・・・
人の頭から足まで突き抜けてしまうぐらいのすさまじい勢いです。・・・・ぼくは逆上して、火を消すことも忘れ、一散に工場を駆け抜けて淀川の堤防へ出ました。・・・・
ところが、その堤防をめがけて無差別の何トン爆弾というやつが落ちたのです・・・・、死体の山です。・・・・・それを見ているうちに、現実の世界ではないのではないか、もしかしたら夢を見ているのではないか、あるいはぼくはもう死んでしまって、地獄なのではないかという気が一瞬したのです。そのくらい恐ろしい光景でした。・・・・」
(岩波新書「ぼくのマンガ人生 大阪大空襲」52項~59項」 手塚治虫著1997年刊)

まさに九死に一生を得たのだった。勤労奉仕で大阪の軍需工場に動員されていたときの体験だ。
このあと、手塚は長時間歩いて宝塚の自宅まで戻るのだが、空腹をかかえて帰る途中でおにぎりを分けてくれた心優しい農家も、その後すぐに空襲で完全に亡くなっていたという。

手塚の作品を通して戦争の悲惨さ、残酷さを改めて訴えることが、このたびの展示のテーマなのだろう。偶然とは言え、良いタイミングで出会ったものだと、感心しながら時間を忘れて展示物に見入った。

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手先の不器用な私は、ついぞマンガを描こうとなどと思ったことはないが、同級生には手塚作品を一生懸命に真似していた友もいた。私たちの世代にとって、手塚治虫のマンガは絶大な影響力を持っていた。私などはストーリーの面白さだけに惹かれて読んだものだが、改めてこの「マンガの神さま」の偉さ、その歴史的な役割の大きさに感銘した。

大学の一期上の先輩が「手塚治虫って、たんなる漫画家じゃないな。あれは哲学者だよ。」と述べていたことを思い出す。この先輩の念頭にあったのは、長編作品「ブッダ」(潮出版)だったのだと思う。

ブッダ

終戦の日については、こんなことも述べている。

「・・・・・・工場が焼けてしまったので、することがありません。学校も空襲にあったし、どうしようもないものですから、家でマンガを描いていました。・・・・・
そうして8月15日。何か知らないけれども、ラジオの中からボソボソと天皇陛下の声が聞こえてきます。何を言っているのだかわからないけれど、とにかく『全国民がんばれ』とでもおっしゃっているのだろうと思って、聞き流していました。しかし、まわりがやけに静かなのです。昼から鳥の声も聞こえないぐらい静かになってしまった。これは何かおかしい。外に出てみたら、だれ一人歩いていない。しーんとしている。異常なのです。・・・・・
8月15日の夜、阪急百貨店のシャンデリアがパーっとついている。・・・・一面焼け野原なのに、どこに電灯が残っていたかと思えるほど、こうこうと街灯がつき、ネオンまでついているのです。・・・・・
『ああ、生きていて良かった』と、そのときはじめて思いました。ひじょうにひもじかったり、空襲などで何回か『もうだめだ』と思ったことがありました。しかし、8月15日の大阪の町を見て、あと数十年は生きられるという実感がわいてきたのです。ほんとうにうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。」
(同書「ぼくの戦争体験」62項~65項)

このとき、17歳くらいのことだろう。
この述懐は、私自身の両親、叔父、叔母をはじめ手塚と同世代の戦争経験者の話と比べてみても、とてもよく共通している。廃墟のなかのみじめな敗戦だったが、同時に大きな解放感があったようだ。
戦争が終わった事を心から歓迎したのだろう。戦争を知らない我々以降の世代との決定な違いと言っていい。
今では、もはや戦争のリアリティーそのものが希薄になっている。だから「集団的自衛権」の恐ろしさに実感が乏しい。
国家などというものは、放っておくととんでもないことをしかねない、という実体験を手塚治虫は残してくれたのだと思う。
政治家(屋)の甘言に騙されないように注意しようと思う。自分たちは勝手なことをしておいて、本当のことは国民に隠すという悪しき習性は変わっていない。

そして「アドルフに告ぐ」は、そんな手塚治虫が、自らの戦争体験をどうしても後世に残そうとしたのだという。

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今から30年前、手塚はこうも述べている。

「・・・・戦後40余年が過ぎ、だんだん戦争の忌まわしさを伝える人間がいなくなりつつあります。
当時の状況を体験として、つぶさに知っている人間は、若い人たち、子どもたちに〝戦争〟のほんとうの姿を語り伝えていかなくては、また再び、きな臭いことになりそうだと、ぼくは不安を抱いています。
〝正義〟の名のもとに、国家権力によって人々の上に振りおろされた凶刃を、ぼくの目の黒いうちに記録しておきたいと願って描いたのが『アドルフに告ぐ』なのです。・・・・・
ぼくが、アニメーション映画に力を注いできたのも、一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手に取って、夢や希望に眼を輝かすことのできる子供たちに育ってもらいたいからなのです。・・・・・
いかに教育がすさまじい力で子どもの柔らかい心身に食い込むかを、ぼくは若い人たちに知ってもらいたい。・・・・・」
(手塚治虫 ガラスの地球を救え48項~52項)

これは非常に重要なメッセージだと思った。いなむしろ、今日こそ手塚の不安がますます現実的に実感される状況に入っているのではないだろうか。国粋主義、復古主義教育、憲法改悪など、とても危険な兆候だと思う。じわじわと戦後民主主義否定が進行しているのではないだろうか。

そう考えながら、改めて「アドルフに告ぐ」を読んで見た。
そして何回も「そう、その通りだ!」と共感した。
私は、改めてこの「マンガの神さま」のメッセージを噛みしめた。

手塚治虫

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