飛鳥訪問(3)・・・・高松塚古墳壁画への素朴な疑問 

高松塚壁画館に展示された精巧なレプリカ(現状模写)を見た。1972年当時の検出の姿を忠実に再現したものだという。

1300年も前の壁画が、こんなに鮮やかなまま20世紀まで生き延び得たことは、まことに奇跡的なことだったのだと、素直に感動した。
第一発見の人々にとっても、さぞかし大きな驚きだったことだろうと実感した。

KIMG0037
西壁 女子群像

この古墳は鎌倉時代に一度盗掘されたのだそうだが、そのときに盗賊どもが使ってそのまま現地に置き棄てたと思われる灯明皿も、あわせて出土された。夜陰にまぎれての犯行だったのだろう。

この古墳が築造されたのは、専門家の鑑定では7世紀終わりから8世紀始めと推定されている。つまり、飛鳥時代の終末期から藤原京時代(694~709年)にあたる可能性が高いという。それは壬申の乱(692年)の後で、天武・持統天皇が統治した時代。一説には、この夫婦の間に生まれた皇子の一人が被葬者にあたるのではないかという。

藤原京時代のあとは、710年に平城京への遷都があって、ここに奈良時代が始まった。

藤原京跡  飛鳥の北方にあたる
藤原京跡  飛鳥の北方にあたる

時代は645年に蘇我氏の専横を打ち破ったという大化の改新(最近は「乙巳の変」などとも呼称されている)、そして天皇家の内乱ともいうべき壬申の乱(672年)を経て、律令体制の完成期だと学んだ。701年の大宝律令など、年代をまる暗記したものだ。「天皇」という呼称もこの頃が始まりだとか。

天智天皇時代の漏刻遺跡なども興味深い。国家の合理的経営に暦や時間が必要になったのだろう。唐と新羅の連合軍に負けたあと、大和(倭)が急速に「近代化」するプロセスで百済の亡命貴族や技術者が貢献したのだろう。
やがて奈良時代以降で中国のまねごとであった律令制ははやくも衰退してゆくが、荘園制度に経済基礎を置いた貴族政治はこのあと長く続いた。

だから、貴族社会が名実ともに衰退した平安末期から鎌倉時代にかけて、多くの古墳が盗掘されたのは、時代の変化を象徴した現象のように思える。
私は歴史の専門家でもないので断定はできないが、天皇を中心にした古代貴族体制の崩壊時期だからこそ、「盗掘」などという狼藉事件が多発したのではないだろうか。
もはや、埋葬された貴人に対する敬慕の念も失われ、死者への遠慮もなくなっていたからだろう。実際、誰の墓なのかも判らなくなっていたかもしれない。
それほど、平安末期からは朝廷の混乱や源平の騒乱などで日本人一般の精神生活が荒廃したのかもしれない。映画「羅生門」を想起する。

それが13世紀頃だとすると、高松塚古墳ができてからだいたい500年後ということになるだろう。木製の棺はほとんど残留していない。太刀も錆びて消失したのだろうか。僅かの例外を除いて埋蔵遺品は残っていない。
同古墳は江戸時代には、根拠もなく文武天皇の墓だという言い伝えすらあった。(今、すぐ近くに別の文武天皇陵がある)

しかし、幸いなことに壁画や銅鏡一枚、太刀の装飾品などが少々、玉類、棺の部品などが僅かに残っていた。
特に海獣葡萄鏡は同笵品(同一の鋳型,または原型からつくられた鏡)が唐代の中国の墓でも発見されているので、たぶん遣唐使が招来したか、あるいは朝鮮半島経由か、いずれにせよ舶来品ではないかという。

高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡
高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡

そういえば、壁画も同時代の唐や高句麗の墓の壁画に類似するデザインが認められるので、たぶん高松塚古墳の壁画を書いた画師たちも遣唐使船で唐に渡り学んできた絵師なのではないかと想像されている。

石槨内部はとても狭い(高さ1.13、奥行き2.65、幅1メートル程度)ので、せいぜい絵師が二人しか入れないだろう。室内に座して、壁面や天井面の薄い漆喰の上に絵を描いている。

埋葬された人物はたぶん身長163センチ程度の壮年男子(40~60代)だったようだ。漆塗りの木棺(長さ2、幅0.57メートル)に納められていたらしい。

発掘した網干善教氏の考察によると

「・・・・高松塚の壁画はそれぞれ重要な意味をもっているが、なかでももっとも注目され、かつ壁画の中枢的な意味を持つものは、石槨内天井石の中央に表現された星辰図である。・・・・」(日本の古代史を掘る6 高松塚古墳 読売新聞1995年 165ページ)

「・・・・星辰図は、遺体の真上に表現されていた。」(同166ページ)
すなわち、仰向けに安置された遺体の真上に星辰図が描かれているのだ。

高松塚古墳 天井星辰図
高松塚古墳 天井星辰図説明

では、なぜこの位置に星辰図が描かれたのかというと、
「・・・・・たんに夜空にきらめく美しい星を描いた感傷的なものではない。・・・・政治的な意味を持つ。ここで政治的とは、被葬者の身分、あるいは地位を表現したものであろう。その星のもとに永遠の眠りにつく人物の高貴性を示しているものであろう。これこそが高松塚壁画の中心をなすものであると考える。」(同169ページ)

ということだ。同じ時代のキトラ古墳も、やはり天井にはもっと精巧な星辰図が描かれている。

キトラ古墳天井図
キトラ古墳天井図

これは被葬者たちを含めた同時代の人々の宇宙観、世界観を反映しているのだろうと想像される。先進国の唐や高句麗の文化を飛鳥人たちが学んだからだろう。渡来人たちの貢献なしには描かれなかったに違いない。古墳周辺には檜前(ひのくま)という地名があって、そこは渡来系の人々の地盤でもあったらしい。なんとオンドルの遺構も発見されている。

さて、私はここでとても素朴な疑問を持った。
それは、この古墳にはまったく「仏教の匂いがしない」ことだ。

私たちが学んだ日本史では、この古墳の時代をさかのぼること100年近い前、有名な聖徳太子の十七条憲法が発布(604年)され、その第二条には
「二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。」(日本書紀より)

とあって、治世の原理として仏教思想が日本に導入されたのではなかったか。しかも、仏教が公伝したのはそれを更に半世紀ほどさかのぼる6世紀中葉、欽明天皇の時代だったはずだ。百済の聖明王から仏典や仏像がもたらされた。
法隆寺や四天王寺も太子が発願建立したと学んだように思う。

日本史上の最初の本格寺院とされる飛鳥寺(法興寺) が、蘇我馬子によって建立されたのも6世紀末から7世紀初頭。飛鳥は数十の寺院が並ぶ「仏都」の趣であったと伝えられる。

飛鳥寺の大仏
飛鳥寺の大仏

ところが、7世紀末から8世紀初頭とされる高松塚古墳やキトラ古墳には、私が見た限りでは仏教の影響が痕跡すら見られないのは、いったいなぜだろうか。埋葬施設は同時代の人々の世界観や宗教観の表現の場でもあると思うのだが。
それとも、この二つの古墳壁画だけで、この時期の思想風景を推論することには無理があるのだろうか。

素人に過ぎない私では、とても答えが出そうにはないので、とりあえず疑問点だけに留めておきたい。
読者諸兄からの御教示を歓迎します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA