謎に満ちた田園風景・・・飛鳥訪問(1)

昨年、彼岸花が農道を美しく染める頃、初めて飛鳥を歩いてみた。
なだらかな丘陵地帯が続くので、ハイキングには持って来いだ。

飛鳥の彼岸花
飛鳥の彼岸花

緑の美しい、のどかな農村の景観が広がる。
しかし、ところどころ謎めいた古代遺跡が散在する、不思議な田園風景でもある。日本の他の地域には少ないだろう。

緑が美しい

飛鳥の景観
飛鳥の田園

歴史書によると、7世紀ごろ、ここで「日本」の原型ができたらしい。「日本人の心の故郷」などと愛でる声もあるが、正直に言って、日本人である自分ですら、わかったようで良くわからない。それぞれの遺跡の説明文を読んで、なるほどと感心したあと、本当にそうかなと改めて自問すると、もう自信がなくなる。
江戸時代に飛鳥を散策したという本居宣長には、どれだけわかったのだろうか。今日に較べて、発見された遺跡もまだ少なかった。

1972年春、高松塚古墳が発見されたときの騒ぎは、今も記憶に残っている。
新聞もテレビも「飛鳥美人」の写真で溢れていた。1300年もよく残ったものだと素朴に感嘆した。

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高松塚古墳の壁画模写

こんな異国風の衣装を着た貴人たちがいたのだろうか。

確かに、中国大陸や朝鮮半島由来の文化が日本の古代に大きな影響を与えたことだろう。当時は、あちらのほうが「先進国」であり、飛鳥人たちの憧れだったのではないだろうか。
だから、ゾルゲが指摘したとおり、日本は膨張したエネルギーを大陸進攻に向けるのだろう。
壁画の模写を見ていて、ふと思ったのだが、下膨れ顔の女性が美人の典型だったのかもしれない。薄いピンク色の肌が健康的な印象を与える。正倉院の鳥毛立女屏風を連想する。

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正倉院蔵の鳥毛立女屏風

高松塚は、歴史的には古墳の最終期のものらしい。
教科書で習った、仁徳天皇の巨大な古墳(大仙古墳)などとは比較にならない程小さい。表は盛り土といった風情だが、「版築」という手間と労力のかかる技術が施された。
葬送儀礼の観念が、それだけ大きく変化した跡なのだろう。ひと括りに「古墳」と言っても、かなりの経年変化があるということだろうと思う。

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高松塚古墳

古墳だけではない。奇妙なサル石、愛嬌のある亀石、酒船石など、これだけの「石の文化」が日本の古代にあったということも、自分なりに「発見」だった。
こうした石造物は、おそらく何らかの宗教的な観念の産物なのだろうが、具体的には何のためか、今ではよくわからない。様々な見解があるようだが、改めてその古雅な表情を見ていても、自分にはピンと感じるものは少ない。
かろうじて、この時代の人々の心の素朴さは想像されるのだが。

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サル石
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亀石
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酒船石

硬い岩を加工する技術もあったのだ。用途についても興味深いが、何かを占ったのだろうか。

石舞台は横穴式古墳(蘇我馬子の墓)の石室ということだが、なぜきれいに剥き出しにっているのか、よくわからない。

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こんなに大きな岩石を運搬したり組み上げたりしたのだから、すでにそれ相応の技術があったのだろう。それは後の時代には継承されなかったのだろうか。

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大和三山のうち、有名な天香具山に登ってみた。

これがあの持統天皇が歌った香具山かと思うと、意外にも「山」というには低い。むしろ、小高い「丘」といった規模。10分も歩けば頂上だ。
形状も平凡で、「天の」と歌うほどの神聖さがどこにあるのか、よくわからないし、何かしらあっけない。

「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」

持統天皇が、北側の藤原京から香具山を望んで詠んだらしい。自転車で15分もかからないだろう。飛鳥は意外に狭い盆地世界なのだ。

我ながら文学的なセンスがないのだろうと思うが、まったく味わいが湧かないのでそそくさと下山した。

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香具山から畝傍山を望む

むしろ、円錐形の耳成山のほうが良い形状に思えた。

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香具山から耳成山を望む

今は、これまでに発見された遺跡が無機的に散在する地表面を歩いているだけなので、古代飛鳥の輪郭がイメージしにくいのだろう。今後も道路や土地の開発などをきっかけに、新しい遺跡が発見される可能性があるという。まだ90パーセント近くは地下に眠っているらしい。しかも、100年余りにわたる飛鳥の歴史遺跡が、地下深く重層的な埋蔵構造になっているという。

飛鳥の北側にある藤原京も発掘が進むにつれて、平城京と比べて遜色のない規模であったことが次第に判明してきているらしい。

そもそも「飛鳥」という地名自体の範囲も、私たち素人にははっきりしない。「明日香」とどう違うのだろうか。
数年前、たまたま大阪府内の河内国分地域から古市方面にサイクリングしていたら、ふと道端に「飛鳥川」という地票を発見した私は、なぜ河内に「飛鳥川」があるのか不思議に思ったことがある。

最近になって、上田正昭著『「大和魂」の再発見』(2014年 藤原書店)を読んで、初めて複数の「飛鳥」があるということを知った。

「・・・・飛鳥といえば、多くの人びとが大和の飛鳥を想起する。古代の飛鳥を論及するに当たって、大和の飛鳥とならんで注目すべき飛鳥に、河内の飛鳥があったことをいまだに知らない人びとがいる。・・・・」(同39ページ)
まるで私のことだ。

「・・・・私が河内飛鳥の重要性を指摘し、問題を提起したのは、昭和四十六年(1971)の春、大阪府羽曳野市飛鳥を中心とする地域を調査した時からであった。・・・・・河内飛鳥の保存もまた重要であることを指摘した。」(同)
かつて、上田先生の謦咳にわずかばかり直接触れる機会があった自分としては、とても恥ずかしい思いで読んだ。
これは、正直に告白しておこうと思った。
つまり、私が見学したのは、正確に言えば「大和飛鳥」だったのだ。そういえば、学生時代に住んだ東京・北区にも桜の名所「飛鳥山」公園があったことを思い出した。

※ちょうどこの記事を書いたころ、上田先生が逝去されたとの報道に接しました。不思議な思いに駆られ、心よりご冥福を祈ります。

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