「つるのはし」縁起(1) 「大阪」に「維新」がふさわしいとは思えない

<アジア的混沌>

 たぶん小学校に入った頃、勉強になるだろうということで、日本地図に全国の主要都市名の入ったすごろくを買い与えてもらったことがある。
もう、どういうルールで競うのか忘れたが、確かに地名を覚えるには都合がよかった。「敦賀」などという地名はこのときに知った。おそらく、すごろく全体の中心あたりに位置していて、駒の歩む分岐点だったからだろう。確か、北陸方面と琵琶湖方面だった。
旅行気分でサイコロを振るゲームだった。

初めてこのゲーム板を見たとき、子供心に「日本って、東京だけではないのだ!」という発見をしたことを覚えている。
つまり、そのころの私には日本とは東京だったのだ。
物心ついたとき、我が家は東京都世田谷区内に住んでいた。

この驚きはその後も時々思い出した。
父の故郷の岐阜で高校まで生活し、ふたたび東京に戻り大学を卒業し、そののち就職して住み着いた大阪で所帯を持ちそのまま今も生活しているが、やはり何かの拍子にこのゲームのイメージをふと思い出す。

 これは私自身の地理感覚の基底部に刷り込まれたイメージだと思う。だから、今大阪に住んでいてもまだ「よそ者意識」が少し残っている。

「坊主、富士山を見せてあげようか。」などと言いながら首から吊り上げられる。「どうだ、見えたか?」と近所のおじさんにからかわれる。
「富士山」という日本一の山は、必ず西方向にちょこんと頂上が見えたものだった。

ところが大阪に来たら富士山は見えない。しかしそれまでには経験したことのない、いろいろ新鮮な発見があった。

 夜行バスに乗って初めて大阪に来た大学生のとき。
朝早く地下鉄心斎橋駅から地上に出てみて周囲を眺めたとき、まだ早朝だったからだろうが、うら侘しい街並みに見えた。新宿に比べてビルが低いから、「まるで昭和30年代の日本に帰って来たみたいだな。」と感じた。
御堂筋を走る救急車のサイレンのトーンがなぜか東京のパトカーに似ていた。「違う街に来たんだ」という実感が湧いた。

その日の朝9時に、心斎橋に本社のある会社に行けば、自動的に就職が決まるのだった。たぶん、11月1日だったのだろう。
私たちの時代、何社か内定している会社のうち、11月1日に「出頭」したところが就職先に最終決定、というわけだった。
いい加減な就職活動だったので、仕事の中身はほとんど詮索しなかった。
「会社なんてどこにいっても同じようなもの」とたかを食っていた。

しかしこの時、私は「しまった。今からでも遅くないから東京に戻ろうかな」とも思ったのだが、なんとなく腹が減ったので、そのまま近くの喫茶店で朝飯をとることにして時間を潰してしまい、結局その会社で働くことになってしまった。
 空腹に負けて人生の大事をいい加減に決めてしまった。
どうせ「海外駐在員」として採用されるのだから、日本脱出の前に、東京と違う風景をかいま見ておくというのも悪くはないかもしれない、という気持ちもあった。

 まず驚いたのは「鶴橋駅」という国鉄電車(当時)のガード下のドヤ街みたいなところ(ここは、今もほぼ昔のままの風情が残っている)で、値札通りに靴を買って同僚の大阪人に馬鹿にされたこと。
「あほやなぁ。なんで値切らへんかんたんや!」
これには正直驚いた。

深夜の天王寺・通天閣界隈の映画館。
まるで昭和30年代にスイッチ・バックしたみたいな古いフィルムを上映する映画館が、何軒か派手に営業していて「ただいまの料金800円」なんて値札が入り口にある。一回りして最初の映画館に戻ると「ただいまの料金600円」なんてことになっていた。
驚いて「さっき800円だったけど?」と尋ねると
「(お客の)入りによって変わるんや」ときた。

お隣の阿倍野界隈の裏通り。
細くて薄汚い路地の両面には所狭しと小さな店が軒を並べていた。焼き鳥屋、立ち飲み屋、お好み焼き屋、たこ焼き屋、串かつ屋、将棋屋さんなどがぎっしり詰まっていた。酔漢の放尿の匂いがただよう。東京タワーよりもはるかに小ぶりでバタ臭い通天閣。優美には見えなかった。
その中に昔懐かしい「おはじき」を、大のおとなが桟敷に座って真剣にはじいている店があった。窓越しに見物していると、なんとそれは、ささやかな「賭博」だったようだ。ただし、わずかな掛け金だったと思う。

ネクタイなんかして歩いていると
「兄ちゃん、1000円貸してぇや」
と気軽に声をかけられそうな雰囲気だ。
しかもアカの他人だが、いわゆるたかりでもない。
本当に1000円だけ。

そういえば画板を首からさげて「一局100円」などという、ひとり将棋屋とか碁の試合もあった。立ったまま画板上で対局するのだ。勝負に小銭がかかっているという次第。

「バッタやさん」の店先。軽快流暢な大阪弁の呼び込みのセリフは、聞いていてとても愉快で、なんど聞いても飽きなかった。
面白かったので、毎週土曜日午後に見物した。あきらかに「さくら」とわかる人も前にいる。で、お互い掛け合い漫才みたいに演技しているのだ。息の合ったリズミカルな会話。
そのなめらかで愛嬌たっぷりの口上、身振り手振りのやり取りの見事さは、私にはほとんど「ゲージュツ的」ですらあった。

私はこういう光景は生まれて初めてだったから、とても嬉しくなった。
決して性悪ではない。ありのままの庶民の街なのだろう。

「ここはアジアなんだ」

やがて私は大阪に住み着いた。

 今はもう、そうした猥雑な雰囲気もかなり減りつつある。「再開発」の掛け声のもと街並みは消毒されて清潔になってしまった。昼日中からリヤカーの周りにつどいカラオケに興じる、あの「オモロイ」人々はきれいに排除されたのだろうか。天王寺公園の名物だった。

私には中途半端な「東京化」が進行しているようにも見える。
クリーンにはなったのだけど、なにかよそよしい。何より「オモロ」さが減った。べチャッとした大阪弁と街並みが不釣り合い。

どうせやるなら、東京のような洗練された「冷たさ」が好ましい。それはそれで「快適」なのだ。中途半端がいけない。
そもそも東京にコンプレックスを持つことが間違っている。「大阪都」なんてネーミングはいかがわしい。大阪は大阪でいいのではないだろうか。

<猪甘津(いかいのつ)橋>

ところで、大阪で何回か引っ越しをして、今住み着いている住居の近くに「小橋(おばせ)」という交差点がある。正確には「天王寺区小橋(おばせ)町」。

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なんでこんな読み方をするのか不審に思って、この地名の由来を調べてみたところ、なんと「日本書紀の仁徳14年の条」に出てくる由緒ある地名であるとわかった。記録の上では日本史上で最古の橋の地名に由来するという。

「日本書紀」の仁徳天皇14年11月の条には
「猪甘津(いかいのつ)に橋為(わた)す。即(すなわ)ち其の處(ところ)を號(なづ)けて小橋(をばし)と日う」
と記されている。

また、ここに記されている小橋の「猪甘津(いかいつ)の橋」が、現在の生野区内にかつて流れていた「百済川」にかかっていた「つるのはし」であった、との伝承が江戸時代からあるのだそうだ。

「猪飼野」という地名は養豚技術を持った渡来人が住んだところから名づけられたという話も聞いた。
今日の天王寺区、東成区、生野区、東住吉区、平野区にまたがる平野部に相当するらしく、かつては低湿地帯がひろがっていたようだ。その中を「百済川」が複数分流し、ゆったり蛇行しながら南から北へ流れていたらしい。

百済川は、奈良県から大阪湾に流れる「大和川」の本流だった。かつて大阪湾が河内平野の奥まで入り込んでいた時代には、もっと大きな川であったようだ。その古代大阪湾に「小橋」を含む「上町台地」は半島のように突き出ていたそうだ。猪飼野はその東側の低地に位置する。さらに昔は河内湖の西端だったようだ。

国土交通省近畿地方整備局の説明によると、

「古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣の異なる地形であった。
この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には潟の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖ができあがった。(これが河内湖 筆者注)そして、古墳時代に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌した。

6000~7000年前の河内湾
弥生時代の大阪湾
1800~1600年前

仁徳天皇が行ったという堀江の開削は、洪水対策と水運発達に役立った。
645(大化元)年に始まる「大化の改新」により、大阪は歴史の表舞台となった。難波津は政府の港として外交の基地、献納物の中継点・集散地、水上交通のターミナル、警察、軍事の拠点として発展したとのこと。
小野妹子で有名な初期の遣隋使船もこの水路を利用して出発していったそうだ。

確かに日本史で概要は学んだように記憶するが、まさかこのあたりがその古代の由緒ある中心地のひとつだったとは思い及ばなかった。今の大阪とは、あまりにも景観が違いすぎるからだ。

仁徳天皇時代に開削工事が行われ「堀江津」ができたという記述が歴史的事実なら、現在の大阪市を東西に分断するような、かなりの大土木工事だったと思う。
たぶん仁徳天皇一人に仮託した伝説なのだろう。

大和川下流

大和川や百済川の水路を利用して大阪湾から飛鳥方面に向かう水運ルートがあったようだ。

<つるのはし>

さて、捜してみると、その「つるのはし」は生野区内に史跡が現存していた。(文末写真)

そこの説明文によると、地名「鶴橋」の由来となる「つるのはし」は、往時この辺りに鶴が多く集まったところから「鶴の橋」となったとのこと。今日の、住宅が密集した下町風景とは、まったく異なる景観だったことになる。

かつて、ここには「百済川」が流れていて、その川に昭和の初期まで「つるのはし」がかかっていた。
「猪飼野」はまた別名「百済野」とも呼ばれていたらしい。

「百済川」は後に「平野川」になり、洪水による被害を軽減するため江戸時代(宝永年間)に実施された大和川の付け替え工事によって細い支流となり、更に大正から昭和期にいたる近代の開削工事で、今日見られるような一直線の「平野運河」になった。

平野運河
現在の平野運河

そのときに「つるのはし」は消失した。
遺蹟だけが、ささやかな記念公園として残されたのだった。

大正時代、この平野運河掘削工事のときに、多くの済州島出身者が出稼ぎで住み着いたという。昔からの「百済」という地名が残っていることも含め、興味深い経過だが、朝鮮半島との縁が深い地域なのだ。

隣接する「コリア・タウン」もそうした人々のための市場として発生したものらしい。在日の方々の努力もあって、商店街も立派に整備され、今や大阪の名所だ。珍しい朝鮮食材が店先に並んでいる。

ところで、江戸時代末期の浮世絵師の長谷川貞信の「浪速百景」という浮世絵にこの「つるのはし」の絵が残っており、絵の中の添え書きに、かつてこの橋が日本最古の「小橋」であったという伝承が記載されている。
その絵が神戸市立博物館に現存しているらしいというので、神戸に行って学芸員にお願いしてそのマイクロフィルムを拝見させてもらったことがある。

ただし、「つるのはし=小橋」はあくまで江戸時代の「伝承」で、仁徳天皇の時代とは1000年以上の開きがあるから、真偽のほどはわからない。
明治時代の末に急速な宅地化が進行して、今日のような密集した下町になったのだそうだが、幕末の風景とはまったく異なることがわかる。

つるのはし

長谷川貞信 難波百景から「猪飼野つるのはし」

とはいえ、この「猪飼野」という地名は昭和40年代まで町名として存在していた。中世は四天王寺の荘園、さらにその前の律令時代には「摂津国百済郡」に含まれていたようだ。今もあるJR貨物駅「百済駅」、「百済商店街」などの地名が、その残滓と見られる。

猪飼野橋
生野区内今里筋に残る「猪飼野橋」の地名

<古代史を見る眼>

さて、ここからは想像だが、日本書紀の記述どおり、この猪飼野の「小橋(おばせ)」が仁徳天皇時代に、ここに川があって橋をわたしたことからの地名として残ったのは、よほど大切な交通の要衝であったからだと思われる。

そういえば飛鳥・奈良時代の首都・副都であった大阪市中央区の「難波の宮」(現在も発掘作業が続いている)の朱雀門から一直線に南下する朱雀大路は堺方面で竹之内街道に接続する。この竹之内街道は大和川を沿って生駒山系を越え飛鳥に繋がっている。
古代の「国道1号線」といわれる由縁。
最近は景観を鑑賞しながらスポーツサイクルで走る人が多い。

「街道歩き旅.com」さんより
「街道歩き旅.com」さんより

大陸や半島から瀬戸内海を通ってやってきた渡来人たちは、大阪湾の「堀江」などという船着き場、すなわち「津」で陸揚げし、眼の前の難波の宮で挨拶を受け、今度は旅装を変え、陸路で南下し現在の堺市内を左折して大和に至るというコースを歩んだのだろうか。だとすると、その道筋の始めに「小橋」が当たるのかもしれない。
『堀江』という地名は今も大阪市内に残っているし、大土木事業を行ったとされる仁德天皇の皇居跡が,市内中央区にある「高津宮」だそうだ。

ここは上町台地の西側傾斜地になるだろうか。豊臣秀吉が大阪城三の丸をつくるときに、この地に移設させたものらしい。
一方、「後進国」と見下げられたくないという「国威発揚」意識もあって、海上からも望見できるように、まさに「小橋」のすぐ南側に「四天王寺」を聖徳太子が建立した。「天王寺」とう地名の由来なのだろう。

あくまで素人なりの空想をめぐらしたに過ぎないのだが、こう考えるとこのあたりは何かしら歴史的なゆかりを感じる。
つまりは、この地域は渡来文化が伝わった歴史的な道筋、川筋にあたるのではないだろうか。有名な「熊野街道」も大阪市内を南北に縦断する。これは平安時代以降の熊野本宮(和歌山県田辺市)巡礼の道らしい。

小橋の交差点から南方約100mくらいの天王寺区細工谷(さいくだに)では7、8世紀頃の遺跡が発掘調査され、そこから「百済寺」とか「百済尼寺」と記載された土器も出土している。同時にそのとき、日本最初の銭である富本銭も出てきた。
物好きな私も、さっそく発掘の現地説明会に参加してみた。この遺蹟は平安時代まで続くと、学芸員が説明してくれた。
古代史への想像が膨らむ。仏教を伝来した渡来人が住み着いていたのだろうか。
彼らが日本文化の形成に大きな貢献を果たしたことは間違いない。

いずれにせよ古代において、この地域は大陸や朝鮮半島の先進文明を真っ先に受け入れ、渡来文化の花を咲かせたところであったことが偲ばれる。

日本の歴史と社会を構造的に理解するには、「東京中心」の通弊をいちど外す必要があるのではないだろうか。
私は大阪に住んみて、日本近代の通念「=東京中心のヒエラルキ感覚」に根本的な疑いを感じるようになった。その淵源は維新政府(藩閥政治)の「自己正当化」「洗脳教育」かもしれない、と。
だから、「大阪」と「維新」がさほどふさわしいとは思えないのだが。

つるのはし跡

“「つるのはし」縁起(1) 「大阪」に「維新」がふさわしいとは思えない” への4件の返信

  1. つるのはしのところだけ、拝見しました。とても、面白かったです。ここに来てから、5番館の杉本さんに、大阪市内の案内をしていただき、つるのはしもマンションの方々と、見に行きました。大阪にいても、知らないことばかりで、知ってみると、ほんとに楽しいですね。これからも、いろんなことに、挑戦してください。また、時間をみつけて、懐かしい映画のところも拝見します。

    1. 有難うございます。フォレストに入居したころ、6番館の私の部屋のベランダからは細工谷の遺跡発掘作業が良く見えていました。まだ「イズミヤ」がなかったからです。
      それで、何の発掘調査をしているのか興味を持ったことも、この原稿を書いてみたきっかけです。拙文を詠んでいただき、恐縮です。
      かなり「我見」も書き込んでいると自覚していますので、忌憚のないご意見を伺えれば幸甚です。

  2. 秋庭様 ”つるのはし” 拝見しました。奥野様と同じく つるのはしに 行った事があります。なあ~んだ と 思った事を
    思い出します。でも 歴史が 在るんですね。
    小橋から細工谷まで 幅広く調査をされており これからも
    天王寺区を 詳しく教えて下さい。(いいね) です
    アバスト 失敗です。次会 パスワードを持参しますので
    よろしくお願いします。

    1. 感想文を有難うございます。この原稿は数年前に基本ができていたのを、加筆修正してupしました。
      Avastのインストールを後回しにしていて、もしもインターネットでウイルスに汚染されるとせっかく
      新しいPCにしたのに壊されるといけないから、明日でしたら休みですからいつでもPCを持参してどこかで
      一緒にやってみてもいいですよ。

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