映画「ハンナ・アーレント」        人が考えることを捨てた時(2)

1906年生まれのドイツ系ユダヤ人ハンナ・アーレントは、1933年にベルリンで逮捕されたが釈放後フランスに政治亡命した。そこで最初の結婚をしたものの長続きはしなかったようだ。

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亡命ユダヤ人ハンナ・アーレントはシオニズムに賛同し、その運動に熱心なソーシャル・ワーカーとして参加したようだが、やがてフランスがナチスに降伏すると、今度はフランス政府(おそらく親独ビシー政権だろう)から拘束抑留(40年)されてしまう。スペインとの国境近い劣悪な収容所だったようだ。
映画にも出てくるが、二度目の夫が迎えに来るまで待ち続ける苦しみを味わった。その後41年、幸運にも実母を伴い夫婦でアメリカに政治亡命することが出来た。
着いたときは英語を解さなかったが、アメリカを「パラダイス」だと感じた、と大学の講義で生徒に述べている。

33年から無国籍の生活が実に18年(米国籍取得は51年)も続いたというから、ナチスの迫害を逃れてきた多くのユダヤ人と同じく、同胞と助け合いながら新天地アメリカで生きるための苦労を重ねたことだろう。アメリカには、こうした亡命ユダヤ人の強い紐帯があった。

約20年後のアイヒマン裁判の61年当時、彼女はすでに著書「全体主義の起源」(51年)や「人間の条件」(58年)で注目され、コロンビア大学などで客員教授をつとめる学者としての立場を確立していた。しかしハンナ・アーレントはそれまでナチス戦犯と直に接触する機会がなかったということや、ニュールンベルク裁判も傍聴していなかったので、アイヒマン裁判に強い関心を持った。

イスラエルで裁かれることになった、この高名な元ナチスのSS中佐を直に見聞しなくては後悔すると考え、夫の心配を振り切って自分から申し出て裁判を傍聴すべくイエルサレムに赴いたのだった。そのため雑誌「ニューヨーカー」に申し込んで記事掲載の契約を結んだ。
たぶん、それまでの研究を実地に検証したかったのだろう。いかにすれば「全体会議」の厄災を防ぐことができるのか、という問題意識があったのだろうと思われる。

アイヒマン裁判
アイヒマン裁判

映画ではドイツ生まれのアーレントが、イエルサレムの自然と風景を、まさに「祖国」に帰ってきたという感慨を持って眺めている印象深い場面が描かれている。その「祖国」には、ともに戦ったシオニスト運動の懐かしい先輩や彼女自身の従姉妹たちも移り住んでいた。皆、再会を心から歓迎してくれた。待望のユダヤ人国家がついにできていたのだった。

この感情は島国国家で同質性の高い日本人にはなかなか難しい。しばしば「単一民族」などという根本的な誤認を、相当の立場にある人が公言するので驚かされるくらいだ。むしろ、海外の大陸国家に移住した在外日本人のほうがユダヤ人の立場を理解しやすいかもしれない。
彼らは2000年以上も前のユダヤ王国の栄光物語や信仰に基づく生活規範を頑固に継承し、何世代にもわたって辛抱強く生き抜いてきたのだから、そのアイデンティティーへのこだわりは我々の想像を超えている。
その間には、いうまでもなく激しい差別と迫害の歴史があった。異境で生き延びるために、それこそ筆舌に尽くせぬ苦難をかくも長年月にわたって重ねてきたのだと思う。

経験しなければわからないことだろうが、せめてその歴史事情への想像力が働かないと、この映画の迫力は伝わらない。
このブログで紹介した映画「戦場のピアニスト」なども参考になると思う。ホロコーストの悲劇は永遠に記憶されるべきだと思う。

ところが、実際にアーレントが直接観察したアイヒマンは、巷間いわれるような「悪魔的存在」などではなくて、意外にもむしろ、あまりに平々凡々たる小役人に過ぎなかった。彼は600万のユダヤ人を身の毛もよだつような「絶滅収容所」に送り込んだ輸送責任者だが、それは組織の上からの指示、つまりはヒトラー総統の命令に従ったまでに過ぎない、と終始頑強に抗弁してのけたのだった。
アーレントはやがて、その言葉に嘘はないと判断した。

アイヒマン
アイヒマン

映画では指摘されていないが、実はアイヒマンはアーレントとは同じ年(1906年)に生まれている。たぶん、アーレントはこの「同輩」を仔細に観察した結果、アイヒマンのような思考性の欠如した凡庸な男がなす、ありふれた「陳腐な悪」が史上稀に見る大犯罪に発展する「全体主義」というプロセスをこそ論じなければ、まったく意味をなさないと感じたのだろう。
とすると、このおおげさな裁判それ自体も「悪」を断罪することにはならない。それどころかインチキ(政治的詐術)である、ということになってしまう。

だから、「イエルサレムのアイヒマン」(みすず書房 1969年)の冒頭「読者に」で指摘しているように、このように無意味な裁判が眼の前で演じられているのは、実は「見せ物」に過ぎないと論断しているのだ。
これにはたちまち同胞からの非難の嵐が彼女を襲った。

「・・・・・あきらかにこの法廷は、イスラエル首相ダヴィッド・ベン=グリオンがアルゼンチンでアイヒマンを誘拐し、<ユダヤ人問題の最終的解決>に彼の果した役割について裁判に附するためにイエルサレム地方裁判所に引出させようと決定したとき考えていた見せ物裁判に不適当な場所ではなかった。・・・・・」(「イエルサレムのアイヒマン」 みすず書房1969年 2ページ)

イエルサレムのアイヒマン
イエルサレムのアイヒマン

雑誌「ニューヨーカー」に発表された63年当時、多くの読者、特に当のユダヤ自身がこの冒頭の挑戦的な書き出しそのものからして感情的に受け入れられないことだったろう。苦楽をともにしてきたユダヤ人友人たちも一斉に反発した。
それは当のハーレントの著書を読まないで一方的に攻撃してくるか、あるいは合理的な根拠のない「中傷」に過ぎなかったことがわかる。
知的に鋭敏な人は、しばしば大衆社会のニューマ(空気)にある致命的な欠陥を衝く場合があると思う。しかし、それはただちに感情的反動を呼び起こす覚悟が必要だ。

では、なぜこんな「見せ物」がイスラエルに必要であったのか、アーレントは上述の直後で
「・・・・正当にも(国家の設計者)と呼ばれているベン=グリオンこそ、この裁判全体の見えざる舞台監督だったのだ。彼は一度も公判にあらわれはしなかった。法廷では彼は検事長ギデオン・ハウスナーの口を通して語った。・・・・」
と指摘している。
要するに、誕生(48年)してまだ間もないイスラエル国家の正当性をユダヤ人と世界に周知徹底する意図がダヴィッド・ベン=グリオンにあることを鋭く抉って見せたのだ。すなわち、いわば「建国神話」を創作する政治ショーであると断定したのだった。

その「歪み」が今日のパレスチナ問題につながっているのではないだろうか。ホロコーストの「悲劇」を知れば知るほど、被害者やその子孫がパレスチナでなぜあんなことができるのか、逆に不審に思うのが自然だと思う。

しかも、アーレントの犀利な分析はアイヒマンのような「凡庸な男」の「陳腐な悪」はなにもナチス幹部だけの専売特許ではなくて、それは「全体主義」が起した社会現象の特徴であって、このときには侵略する側も侵略される側も、更に言えば支配する側もされる側にも同等に生起しているのだと論じた。それゆえに、ナチに協力したユダヤ人すら存在したのだとずばり喝破したことだった。
これは確かに過激な指摘だ。
ナチ対ユダヤ、すなわち加害対被害という単純な図式だけにことを閉じ込めるのは本質を見誤るものだと。それは「復讐」という感情を正当化するに過ぎない。根っこはもっと深い。
これは人間性の本質に迫る洞察だと思う。

勧善懲悪は俗耳に入りやすい。そこを「政治屋」が利用するのだ。この手法は何もアイヒマン裁判だけではない。「東京裁判」の見直しも大きな課題になっている。
政治ショーには、常にどこか「虚偽性」が纏わり衝いているように思う。

そういえば、映画「戦場のピアニストで」もナチに協力して同胞を取り締まったユダヤ人自治警察の姿が描かれていた。やっと21世紀になってこうした真相が次第に明かされてきているのだが、アイヒマン裁判の頃には、皆がうすうす知っていても、そのことに触れることがまだタブーだったのではないだろうか。

アーレントの指摘は輝かしい英雄神話に彩られたシオニズム運動で成立したイスラエル国家に、大きな傷を付けることになる。しかも建国と同時にパレスチナ紛争が勃発(第一次中東戦争)して周辺のアラブ人と激しい戦闘を繰り返しているのだ。できたばかりでユダヤ人の国家は存立の際に立っている。ユダヤ民族主義をいたく刺激したに違いない。
では、アーレントは「転向」したのだろうか。まったく違うと思う。

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しかし、「ユダヤの娘」ハンナ・アーレントが無事に済まされる筈はなかった。

彼女は「アイヒマンを擁護するナチの同調者」と決め付けられた。それは彼女にとってはまったく心外な「人格攻撃」であった。いささかもナチズムの犯罪を弁護などしていないのに。

そうした短慮さもまた、実は思考停止に陥った「凡庸で陳腐な悪」に通じる感情なのだろう。彼女は一歩も譲らなかった。巌のような信念だといえる。

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